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患者さんや被介護者に「寄り添う」って具体的になんだ?

支援職の心構えとして、「相手に寄り添う」ことが大事、とされる。
寄り添う、という曖昧な、漠然としたコトバを、
双方の視点から考えてみたい。

といっても、大したことない話にしかならん、と思いますわ、スミマセン。

寄り添う、とは何かが何かに近づいて、傍にいる、というさま。
私が当事者ならば、或いは私が指示するならば、
クライアントに、寄り添ってくださいなどと、
よくわからない指示は出さないし、出されたくない。
実際、相手によって、必要な、そして望まれる対応 は様々だし、
そもそも、支援を仕事として報酬を得るとき、
心理的な意味で近づく(寄り添う?)ことはできるのか?
って思うんですよね。。。可能なの?それ。
支援サービスには、心理的寄り添いも含まれなければならない
そのような予断があるように感じる。

介護保険制度は、誤解を恐れずに言うと
surveに点数がついて規格も内容も決まった契約として
日本の社会保障に導入された。
高齢人口の爆増によって、制度運営は難しい、今も迷走中だ。
当たり前だが、介護者はsurvantではない。
家族であれ、他人であれ 
被支援者の要求を丸呑みできる召使などいない。
支援には「限り」がある。

父が支援を受ける立場になってから、
ようやく、私(一応、医療者)も
支援を受ける側の気持ちに 考えが及ぶようになった。
もとい、ウソです、
考えだしたのは、父を見送ってからです。
そう、自分事にならないと 分からないもんだし、
父が望んだような最期にしてあげられなかった自責がなければ
考えることもなかっただろう。
父も当初は頑なに支援を拒み、誰であれ何であれヤダ、であった。
なぜなのか?
老いて、不自由で、思慮が浅くなったから、
認知症もあったから
もともとワガママで、ジコチュウでもあったから
介護保険制度という、社会保障制度の仕組みが、理解できていなかったから
それだけですかね?

おもうに、信じられない から。
そんな親切ごかしのハナシの、餌食にはならん、
お前の言いなりにはならん、何を言うか。

気に入らない事ばかり言う娘(私のこと)は(昔からだが)信じていない、
だから、私の言うことを聞き入れることは、
自分で自分の(母も)首を絞めるようなもの、という強い危機感が前提として在った。どうしようもない前提だった。

支援者が信じられないとすれば、何もできない、何も進められない。

当時、原因はいくつかあるが 足が動かないのに焦って動こうとして
父は転倒を繰り返していたし、心不全も末期であった。コロナ期間を経て
母の行方不明 をきっかけに施設入所を支援相談員に強く勧められた。
私も兄弟も遠方住まいだから、
この期に及んでは入所の一択だったが、「そうかい、それならお世話になろうか」とはならなかった。

嫌である。嫌だが、入ってやる、だが気に入らなければ帰る。

このメンタルの動けない老人に、「寄り添うこと」はかなり難です。

最初にお世話になった施設の担当の方々には、本当にご迷惑をおかけしてばかりだった。
慣れていない、ことは勿論だが まだ口が達者であったし、クレームも多かった。
表面的には、自ら好んで孤立していたわけだが、
入居後5か月目で救急搬送され、
その後辿り着いた、最後の施設では、
適度な距離で近づいてくれる介護リーダーを、父は信頼していたと思う。
口では、ほっといてくれ、好きにさせてくれ、と
最期まで、自分と周囲をコントロールしようと、
どなったり、おかしな要求をしたりもしていたが、
偉そうにしていても、もうほとんど動けない、もどかしさや
死の不安の中にいることを、
介護者は理解して、仕事の範囲内で
つかず離れず、うまいこと接してくれたのだと思う。
相性もあるだろうね。

が、父の側にも、変容があったのだと思う。
受容できた、それで少し楽になったのではないか。

(職員さんの全員ではなかったですけど)
だから、
絶妙な距離感に感謝しつつ、最期の時間を生きられた、そう思う。
そう思えるようになって
私も少し、先に進めた。
亡父とリーダーには、心から感謝しています。

私は、物理的にも心理的にも、
最後まで、父に寄り添うことはできなかったけれど
結果として、振り返れば
時々で、誰かが支えてくれていた。
そのことは
被支援者だけでなく、家族の心も楽にしてもくれる。

「お荷物、重そうですね、一つ一緒に持ちましょうか?」
そんな感じだろうか?
それは、たぶん
点数化はできない程度の ちょっとしたこと なんだろう。

自分が受けた、"小さな親切"みたいなものに、いちいち点数がついて
このサービスいくらです、と請求書を切られることが
父は嫌だった、のだと思う。

介護保険制度が社会を支えていることは間違いないし、
契約に基づくサービスが適切に、途切れなく必要十分提供されるために
法で規定されていることだから、規格と点数化に
文句言ったってしょうがないんですけども。
介護を受ける側にすれば
げんなりするし 辛い、一方で
そんなもんいらん、と強がりたくもなる、のだと思います。

状況が切迫して、認知機能が衰え、保険事故が発生してから
このあたりの理解を求めることはコクなので、
例えば、市役所や公民館などで定期的に「保険お尋ね会」などを行い、
コミュニティ全体で知識を持ってもらうことが必要ではないだろうか?

国家資格とか団体資格とか、一般的に支援職と言っても色々あって、認定者によって、職能が認められ、職務の領域と責任が法で定められ、こういう仕事ってことが決められている。外形的にはそうであるが、社会においては、支援職とそうでない職種と明確に二分は出来ないだろう、と思う。

一体、社会は人間の役割分担、つまり仕事の細分化によって「お互い様」で寄りかかり合い、成り立っているので、あらゆる職種には専門性があり支援者としての側面がある。

支援専門職が行う仕事を点数化して、明確にサービス内容を規格化することと、
満足度に関係する部分、
いわゆるサービス、点数化できないような関わりを、
寄り添うなどと、あいまいな言葉で どっちもやれ、というのは難しいのではないか?
レトロスペクティブに、ケースバイケースで出来たことや充足度を調査検討し、評価することで
被介護者側の負担が増えてもいい、と思えるシステム改革ができるのではないか?分析にはAIも役立つだろう。

人生そのものが「規格化」されることのないように。

自分ももうすぐ高齢者ですし、
自身を守るためにも、職場でも近所でも、
目配りしたり、話ができたらいいな、と思います。

お読みいただきありがとうございました。
おさんぽでした。







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