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【短編小説】ミラージュ

ミラージュ、という言葉の響きに私はゲンナリした。
「昨日入荷したばかりの、数量限定のお色です。よくお似合いですよ」
鏡の中の自分の口元が薄っすらと歪むのを誤魔化すように、私は両唇を合わせた。
「ええ、素敵ですね」
私はすばやく椅子から立ち上がる。ハイヒールがコツ、と床を叩く。
元々コットンと化粧水を買いに訪れただけだ。カウンターにずらりと並んだルージュを何の気なしに手にとった。秋らしい、こっくりとしたブラウンレッド。まばゆい照明にパールが艶めいた。お試しになられますか、と声を掛けられ、ドレッサーの前に腰掛けたのだった。
色味もつけた感じもすごく気にいったのに、まさかそんな名前だなんて。
「またにします」
語調が強まらぬよう、と思ったが、早口になった上、息が足らずうまく発音できなかった。気にしないふりをして財布をカバンから取り出す。目的のものだけ受け取り、お金を支払い、店を出た。

秋口とは言え、空はまだ熱気を帯びてくすんでいる。日が落ちるスピードだけ早まって、一向に涼しくならない。夕暮れのぬるい風が長い髪をさらう。鬱陶しくて、邪険に首を振った。
「痛っ!」
ヒールの先が排水溝の隙間に嵌り、バランスを崩した。なんとか転ばずにいられたが、足首を変に捻ってしまう。
一瞬息が詰まるが、苛立ちに腹の底からため息が出る。立ち止まっているのもおかしいので、ゆっくりと歩き始める。捻った足に体重をかけてみる。痛い。けど、大丈夫。我慢できる。
なんだか切なさがこみ上げて、泣きそうだった。空を見上げる。カバンの中にはやりかけの仕事が入っている。明日も会社だ。早く帰ってぱぱっと済ませて、早く寝よう。
カバンの中で携帯がふるえる。ぴかぴかと光って私を呼ぶ。うるさいが、すこし気が紛れ、私は通話ボタンを押した。 

人の不幸は蜜の味とはよく言ったもので、これは良い子になるように良子と名付けられ、良い子になろうとした結果、頭も体もおかしくなってしまった私の友達・良子の口ぐせでもある。
こちらは辛酸を舐めているのに他人にとってはそれが甘い蜜だなんてなんともおかしい話だ。けれど私が嫌々ちょびちょびと舐めている辛酸を甘い蜜だと思って一緒に舐めてくれる人がいるって事は、そんなに悪い事でもないのかもしれない。

「かんぱーい」
と良子がジョッキを掲げるので、私もグラスを掲げた。もう何回目の乾杯だろう。ジョッキの中身は良子の細い喉をするすると通り抜けてしまって、あっという間に空になる。私は杏酒のロックをちびりと舐める。
「もっと飲もうよきおちゃん」
「だって帰って仕事あるもん。良子は飲み過ぎだよ」
「ええ、そんなに早く帰っちゃうつもりなの」
「最初に言ったじゃん」
「そうだっけ」
このやり取りをもう何回したことだろう。
良子は大学以来の友人で、会社は違うものの、たまたま同じ市内の就職だったので、時折一緒に食事をした。今年の春に、お金が少し溜まったため、寮を出て、二つ隣の街に安いアパートを借りて引っ越した。そんなに遠くないから、以前のように会えると思っていたけれど、仕事が忙しくなり、年度が変わってからまだ一度も会えていなかった。出会ってからこんなに長く会えなかったことは初めてだったが、良子は全く変わらないし、私もまるで昨日も会っていたかのような感覚だった。

「離れたくないなぁ、私きおちゃんのこと好きだもん」
清子、という私をきおちゃんと呼ぶのは良子だけだ。
「きおちゃんはそうは思ってないの?」
「はいはい、ありがと、私も良子のこと好きだよー」
「相思相愛ー」
むぎゅー、と言いながら良子が私の肩に抱きつき、顔を寄せてくる。良子の手のひらは温かくて、フローラルの香りとアルコールの匂いがした。良子は、お酒がやめられない。弱いくせにやめられない。大学時代からそうだった。働き始めて三年目で体を壊して退職してから、いくらかましにはなったが、それでも相変わらずのようだ。

「そうそう、聞いてよ。人の頭ん中はね、冷蔵庫の中と一緒なんだ。私ずっと考えててさ、わかったんだよ」
「なにそれ」
「きおちゃんちの冷蔵庫の中のこと当ててみるよ」
「うん」
「えっとね、調味料とか水とかばっかで、肝心の食材はあんまり入ってない。どう? 当たってるでしょ」
「うん、すごい、当たり。なんだけど」
「けど?」
「なんか、悔しい。それっていいこと? 悪いこと?」
良子は吹き出す。そういえば良子の家に行ったことがない。良子をうちに上げたことも。ぼんやりと思う。男しか、綿密に言えば、恋人しか、部屋を行き来したことがない。
「良子は?」
「私?」
「当てるよ」
わざともったいぶって良子を透視でもするように片目をつぶって見る。良子はニヤニヤして頬付をつく。
「そうね、大きな冷蔵庫……色は白。食材は豊富。入り切らないくらい」
「おっ、あったりー!」
良子はおどけて言う。「食べ物を詰めすぎて、どんどん新しいものを入れて、古いものも食べきれないのに捨てられなくて、結局カビが生えて腐っちゃうんだよ。つまり、そういうことだね」
枝豆を噛む良子と私は笑う。良子の冗談はたいてい自虐的だが、私は好きだった。

「電話しときさ、泣いてたでしょ」
「泣いてたよ。ちょうど足捻っちゃったときだったから」
強がるように口をとがらせて言ってはみたものの、受け止める良子の瞳は半分おもしろがり、半分優しかった。
「なーんだ。そろそろ良子様の声が聞きたくなっただろうと思って電話してあげたから、感極まっちゃったのかと思ったよ」
良子にとって私はどういう存在だろう。いつも不思議に思う。私は、甘えるのが嫌いだ。良子はけして私を甘やかしているわけじゃない。面白がって笑う。人から馬鹿にされるのも嫌いなはずなのに、良子なら平気だ。だから、私は事のいきさつを話した。

「馬鹿でしょ、なんか、油断しててさ。その名前聞いただけで、苛ついちゃったんだよね」
もう随分前のことなのに、その言葉の耳障りの悪さといったら。
ホテルミラージュなんてキッチュな名前のラブホテルは多分どんな街にだってひとつくらいはあるだろう。そんな下品な連れ込みホテルのことを私はあの時思い出してしまったのだ。良子の反応は斜め上だった。
「行ってみようよ、きおちゃん。今から」
「ええ、今から?」
「うん」
良子は持っていたジョッキをあっという間に空にしてカバンの中から財布を取り出した。行く気満々だ。
「女二人で?」
「いいじゃん、今時珍しくないよ」
「いや、そういうことじゃなくてさ」
さすがに、場違いと言うか、斎場にTシャツとジーンズで行こうと言われたような抵抗感があった。それに、純粋な気まずさもある。
「私は、きおちゃんが困ってるのが好きなんだ」
「やなやつ」
こうやって良子はわがままを貫こうとする。私はつい渋々といった形で良子に従ってしまう。そんなに悪い気はしないけれど。

友達と恋人の線引きは、どこからなんだろう。曖昧だから、踏み違えてしまうことがあって、大概の場合、踏み違えた後はうまくいかないものだ。
子供の頃から独占欲の強い私は、何が何でも自分のものじゃないと歯がゆくて、自分のものにしようとしては、大切なものを壊してしまっていた。大人になるにつれ、いくらか勉強をして、強引なやり方はしなくなったものの、今でもついその癖が出てきてしまうのではないか、という不信感がある。
孤独感を持て余して、とにかく人と繋がってしまいたくて、手段を選ばないほうに流れていってしまう自分が怖い。

ホテルミラージュは記憶のとおりに小汚く、古くて大げさで暗い。文字のはらいをくるくる丸めた昭和のかおりプンプンのフォントでホテルの名がでかでかと描かれていて、本当にださい。

「ね、見てよ。ブランコがある部屋だって。ブランコで何するの? 新体操?」
狭いエントランスに部屋の写真が貼ってある。良子は楽しそうだが、私は早くこの場から立ち去りたくて、とっさに一番料金の安い部屋を選び、鍵を受け取った。扉を開くと、いたって平凡なビジネスホテルのような部屋だった。
「何ていうか、普通だね。鏡の間とかにすればよかったんじゃない?」
良子はカバンを机に放り投げる。
「ここできおちゃんはあられもない格好にさせられて破廉恥な目にあったんだね」
「その言い方、やめい」
あはは、と良子は大きく口を開けて笑った。そして、勢いをつけて、ぼすん、と広いベッドにダイブした。
「きおちゃんもおいでよ」
私たちは大きなベッドの上に大の字になって寝転んだ。糊のきいたシーツは肌に心地よい。
「私さ、ラブホテル初めて」
「えー、知らなかった」
「きおちゃんは何回目?」
「数えたことない」
「猛者じゃん」
「違います。りょーちゃん、男の人と付き合ったことは?」
「あるよ」
「あるんだ」
「失敬な。私だってありますわよ」
「ごめんごめん」
「いやだった?」
「え?」
「ここに来るの」
「今更なんなんだ」

連れてきたのは自分じゃないか。
良子の目が猫の目になるときは、まじめなときだ。
良子は急にまじめになるから、ちょっと困る。良い子の良子はまじめすぎて壊れてしまって、不まじめになったのに、急にまじめになる。私の胸を打つ。
「べつに、平気だよ。ばか」
「ばかでーす」
「お酒抜けた?」
「んー、もうちょい飲もうかな」
寝転がったままベッドサイドに取り付けてある冷蔵庫を開くと、缶ビールやチューハイが並んでいた。私はビールを良子にほうり投げ、自分は桃チューハイのプルタブを開けた。小気味いい音がして、炭酸が抜ける音がする。口をつけてごくごくと飲む。しずくが顎を伝ってシーツにいくらかこぼれた。手のひらで拭い、舌で舐め取る。少しだけしょっぱい味がした。
話すのをやめると、明日のことを思い出した。けれど思考はそのまま停止する。

「りょーちゃん」
「なんだい、清子め」
「なんでもない」
「あっそ。きおちゃんさ」
「うん」
「口紅いい色じゃん? バブリーなかんじで」
「昭和かよ」
「平成も終わるね」
「うん」
「私その口紅買おうかなあ」
「ミラージュ?」
「いいじゃんミラージュ。初めてのラブホテル記念」
「私もここが初めてだよ」
「きおちゃんも初めてここか。お揃いだね」
「やな思い出だけど」
「私初めてがきおちゃんでよかったあ」
「語弊あるなあ」

化粧も落としてない。一日働いたあとだから、ちょっと汗臭い。つま先と痛めた踵が鈍く痛いけれど、シーツの海にじんわりと解けていくような心地だった。きおちゃん、ねちゃったの? と良子の低く心地のいい声がする。
やりかけの仕事、明日の会社、詰替え用の化粧水、何もかもが私から遠い。ただ、良子がいる。それだけでよかった。

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