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9月10日 死の練習。

「 死 について、 私 は 知ら ない」 という 不知 の 自覚 を 堅持 し ながら、 死に 向け て 最善 の 思考 と 判断 を 遂行 し て いく 哲学 の 態度 が 貫か れる。 それ が「 死 の 練習」 と 称さ れる 哲学 で ある。

プラトン. パイドン~魂について~ (光文社古典新訳文庫) (Kindle の位置No.3676-3678).

成富さんの解説から引いた。

死の練習、という言葉は不穏な響きを孕む。

だが、肉体が死に、その中に魂があるのか、ないのかは不明で、もしあるのであれば肉体にはいないので、どこかに行ったのであろう、ということになるかもしれない。

そこからはもう、生者にはなにもわからない。

輪廻論者であれば、再び生を得る、前の生のことを覚えている、という「そう思いたいのでそう思う」という風にも思えなくはない論理が出てくるかもしれない。

だが、ユングの集合的無意識やアカシャ年代記のようなものが仮にあったとして(アカシャ年代記のことはあまりよくわかっていないのだが)、たまたまこの個体に割り当てられた分の魂が、同じ分量で人間に戻る、というのはなんとなく確率が低いか、あるいはなにかの意思が必要、という気がする。

まあ、なんとなくここ日本に住んでいると、八百万の神というか、物も含めた微生物や植物などに戻る、ということもあろうか、という気がしてくる。だがどこからどこまでが境界なのか。勝手に「この身体と外界あり」なんて思っているが、極小の世界に行けば空気と体の区別が別にあるわけではなかろう。ミクロの世界では、我が皮膚1センチ四方さえ、巨大な砂漠か、あるいは天体か、ということにもなるだろうから。

まあ、そんなことをぼんやり仮説として考えるだけである。そこが限界である。だが、

まあ、それでもいいからいろいろ考えておけよ、というか考えたら面白いよ、というのが、プラトンがソクラテスに託して語らせたことではないのか、などと、この「凡百の個体」は考えているところである。

(生とは、ではなんなんですかねー)


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