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10月28日 ルサンチマンは自らの魂を毀損する。バグダット・カフェをいまさら見た(視聴感想)。

有名だが見たことがなかった”バグダット・カフェ”をアマゾンプライムでいまさら視聴した。何度かリバイバル上映されているようだが、1988年ころの作品のようだ。

以下ネタバレあり得ますのでご注意ください。

いきなりの主題歌があの有名なやつか、というところで驚いた。
この歌がじわじわと効いてくる。

初めの印象は”実験映画かな?あるいはコメディ??スラップスティック?”
というものだった。

主人公の失礼ながら容貌からの第一印象だ。しかし見だしてみると、滑稽味は手放してはいないようだが、別にこの主人公の動きを笑いものにしようとしたわけではないようだった。ある意味真面目な映画であることが次第に感じられてきた。

ダークでやるせない内容かとおもったが、そして映画ではたまにそのやるせなさが、重要なテーマとなることが、特に”名画”と言われるものに多いというのが個人的な認識だ。

だが、どうやらそうでもないようだ。

不思議な内容だが、見続けていると、次第に”いい話”(揶揄の意味ではなくピュアに)になってきて、目が離せなくなってきたのだ。

余裕がなく、亭主が出ていき(追い出したような感じ)、勝気なようで涙を流しているもう一人の主人公。ぎすぎすしたハリネズミのような心がMAXの時に、ドイツから旅行にきて、車中で喧嘩をして一人歩いてたどり着いた”太ったドイツ女”。

彼女の内面は、よくわからない。ドイツの映画なので、あるいはドイツ人にとっては違う印象なのかもしれない。異邦人、よそ者。

モーテルだけに、さまざまな人種がいる感じだが、関係性は既にできており、そこにいきなり入り込むには、容貌からくる違和感もあり、困難であろうと思われる。特に笑顔なわけではない。硬い表情はもちろん状況がさせる面もあろうが、本来の彼女の引っ込み思案な傾向のせいもあろうかと思う。

モーテルの女主人の子供や孫!との交流にも、女主人はいらいらする。あるいは自分からそれを取っていこうとしている、という敵視からだろう。傷ついた彼女の心の怯えでもあろう。

だが、自分にこどもはいない、といったドイツ女=ヤスミン=ジャスミンの言葉を”時間差”で聞いて理解して、一度乱暴に閉めた扉を開けた時から、物語は明るい方向に向かっていく。

次第に育つ2人の、家族の、周りの人々との狭い世界のなかでの友情。

手すさびの手品が、なぜあんなにすぐセミプロレベルになるのか、それはあるいはジャスミンの部屋に置かれた、祈る初見台の両手のせいなのか。

という気がするのだが、だが、それでいい。それがいい。

ばらばらの家族のちょっとしたばらけ要素を、異邦人のドイツ女がたまたま埋めてゆく。あるいは彼女の持つ内面の光のせいなのか。

ハッピーエンドだ。

よかった。悲しい結末のような気もしていたからだ。

最後のマジックショーの部分、モーテルの女主人の唄声のヴォリュームにどきもを抜かれる。ああ、これは日本人の映画ではない。黒人女性の唄声の爆発力を忘れていた。それもまた驚きつつの楽しさだ。

追い出した亭主は戻ってくる。
ジャスミンと喧嘩した夫のことはあえてだろうか、なにもわからない。

そしてアメリカ市民となれそうな結末。ジャスミンの内面の光を感じたようなうさんくさかった男の変容。

大人のおとぎ話、という評価も見た気がする。

予定調和の脚本を難する意見もあった。


だが個人的には、いい映画を見た、評価に納得、であった。

(公開から35年経て初めて見ました。タトゥ-師の女性(ジャスミンと同い年のドイツ清純派女優=42歳)が、みんな仲良しすぎる、といって出ていくところも、人生の機微を押さえているなと思いましたね。。

あ、タイトル回収忘れてました。

ルサンチマンは普通相手がいて、その相手を滅しよう、と希求する気持ちであるような気がしますが、相手を滅したり、害したりすることは結果的にできても、ルサンチマンを持ち続けること自体は、自分の魂が弱り、毀損されるきっかけになるだろう、だが本人は普通そのことを気づかず、気づかないがゆえにルサンチマンを持ち続けるのだろう、ということをふと思ったので書きました。)


お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。