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「似ている」ということ

息子は今のところ私に似ている。

エコー写真で見ていた限りでは、顔の骨格や肉付きの感じが夫に似ているような気がしていたのだが、いざ生まれてみると、額の広さといいややつりぎみの丸い目といい「あれっ、私じゃん」と思う箇所が多々見つかり、「私似」ということで落ち着いた。

子どもが自分に似ていると言われると、なんだか嬉しい。
イケメンにはなれないかもしれないけど……。

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「似ている」ということに関して、一つ発見があった。

息子が生まれたあと、親戚たちが代わる代わるこの小さな新入りに顔見せをしにきてくれたのだが、みんなこぞって私たち親と息子との間に「似ている」場所を見つけようとしてくれたのである。
そのとき「似ている」の対象になるのは、必ずと言っていいほど、両親のうち自分の血縁者である方なのだ。

例えば夫の親族は
「目が夫くんに似てるね」「口元は夫くんなんじゃない?」「頭の形が夫ちゃんにそっくりよ!」
と言う。しかし私の親戚たちは
「おでこが真実ちゃんによく似てる」「目元は真実ちゃん似でしょ?」「口は真実ちゃんの口だね!」
と口をそろえる。

どっちやねん。

誰も嘘はついていないのだろう。
ただ、おそらく彼らの目には「この子は〇〇(自分の血縁者)に似ているに違いない」というフィルターがかかっている。そして、そのフィルターによって息子は、「単なる親戚の赤ん坊」から「〇〇に似た可愛い赤ちゃん」へとクラスアップすることができているのだ。

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「似ている」ということは、時に「好意」につながる。

「価値観が似ているから、彼のことが好きなの」
「こんなに好きなものが似ているなんて、運命じゃない⁉ 私たちズッ友だょ!」
「死んだポチにそっくりのこの子を飼いたいわ」

ちょっとデフォルメしすぎかもしれないけれど、こういった事例は世の中にあふれかえっているのではないだろうか。そして残念なことに「違うから嫌い」「違うから排除する」といった事例も、飽きるほどたくさん。

けれど裏を返せばこれは、「似ているところを探せば、好きになれる」ということでもある。
誰かに対して、自分や自分の身内――家族や仲間――との共通項を探しているときは、無意識にその人を好きになろうとしている時なのかもしれない。
本当に似ているか似ていないかはともかくとして、「似ているに違いないフィルター」をかけてしまうのもそのためだ。

だとすれば、「夫くんに似ているね」「真実ちゃんに似ているね」と言われ続けた息子は、生まれてすぐ、親族という大きな輪の中へと、温かく迎え入れてもらったということになるのだ。……たぶん。

***

息子は時たま、寝るときに薄目を開けている。
端から見ると起きているように見えるのに、呼吸音は規則的に聞こえてきて「ああ寝ているんだな」と理解する。

これが結構、だいぶ、不細工だ。
親の欲目を入れたとしてもせいぜいぶちゃかわ止まりである。

「この薄目、いったい誰に似たんだろうね」

実家に帰った時、薄目を開けて眠る我が子を横目に苦笑しながら言うと、母と弟が怪訝そうな顔を向けてきた。

「何言ってんの、あんたにそっくりじゃないの
「は」
「真実さん(弟は私をこう呼ぶ)、寝てるとき薄目むいてるよ
「え」
「たまに白目もむいてるわよ

衝撃の事実である。
そこ、似なくていい。ホントーに、似なくていい。

息子の薄目はぶちゃかわでも、この表情が自分の顔に張り付いているのだと思ったら……とてもじゃないけど、「かわ」なんて言ってる場合ではないのであった。

息子という、自分とニアイコールな存在の誕生により、三十年ちょっと知らずに過ごしていた悲しい事実を知る羽目になった。

似ていると言われて悲しいのは、これが最初で最後だと良いなと思う。

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