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“オ・イ・シ・イ・ナ”のサイン

離乳食を食べているときの息子のリアクションがずっと謎だった。

だいたいのところが「無」
可もなく不可もないんだよね……みたいな顔で、あごと4本だけ生えている前歯を使って、いっちょ前に咀嚼を行う。

こちらは「おいちいね~」と持ち上げながら食べさせるのだが、果たして息子にとってこれが本当においしいのかどうかわからないのに、「おいちいね」なんて言ってしまっていいのだろうか、という不安が常につきまとう。

以前テレビのバラエティ番組に、事故で記憶喪失になってしまった男性が出演していた。彼はその事故で自分の名前どころか、あらゆる言葉や、「食べる」「寝る」「排泄する」など、人として行うことすべてを忘れてしまったのだという。まさに人間として白紙の状態、つまり「赤ちゃん」に戻されてしまったといっても過言ではなかった。
彼はその番組で、記憶喪失になって初めてごはん(白いごはんの方)を食べたときのことをこう語っていた。

「ごはんを食べたとき、おなかの辺りがポカポカして、『なんかええやん』という気持ちになった。母親に聞いたら、その『なんかええやん』は『おいしい』ということだと教えてくれた」

それを聞いて思ったのである。
果たしてうちの息子の無表情は「なんかええやん」で合っているのだろうか?
もし本当は「なんかやだな」と思っているのに、こちらが勝手に「おいちいね~」って言ってるだけだったら……?
「そうか、この『なんかやだな』は『おいしい』というのだな」
って間違った知識を植え付けられちゃうんじゃないの……?

もちろんそんな間違いは、成長するうちに正されていくだろうし、本当にまずかったらそれこそ「べっ」と吐き出すだろうから、おいしいかはわからないけれど、ひとまずまずくはないんだろう。
けれど、この「ああ、ちょっとでもいいから息子の気持ちを知りたい!」という願いは、きっと全母親共通なんじゃないかなと思うのだ。

***

最近になって、息子はごはんの最中に
・無表情でパチパチと手を叩く
・笑顔で首を横に激しく振る

というリアクションをとるようになった。

余計にわけわからない。

どっちだよ。どっちなんだよ。
パチパチはおいしいご飯に対する賞賛なの? 首振りはおいしくないよのお知らせ? でもそれならば、なぜ表情が真逆なんだいマイベイビー!

そんなある日のことだ。
台風19号が近づいていたその日、そうだ、パンケーキを焼こうと思い立った。パンケーキという言葉が発するときめきで、恐怖を吹き飛ばそうと思ったのだ(もちろん、避難準備や防災対策はしっかりした上で)。

私と夫はホットケーキミックスで。息子はベビー用ホットケーキミックス(いつもありがとうございます和光堂さま!)で。
息子にとってはこれが、人生初のパンケーキだ。

人生初のパンケーキ。
なんだか素敵な語感じゃないか。

最近は食パンスティックももぐもぐと余裕で食べるようになってきたし、きっとパンケーキも上手に手づかみ食べしてくれるだろう。
最初は何だこれ?って顔をするかもしれないけれど。

大人を後回しにし、息子用のパンケーキを用意した。
小さいパンケーキを2枚焼いて、絵本に出てくるような段重ねケーキのできあがり。メープルシロップをかけてあげたいところだが、それはもう少し大きくなるまで我慢しよう。

さて、息子よ、人生初のパンケーキだよ。
私は「パーンケーキ食べたいパーンケーキ食べたい♪」と口ずさみながら、息子の前にパンケーキを置いた。夫が横から「ほら、食べてごら~ん」とうながす。

息子は訝しげな顔をしながらパンケーキをつかみ、初めて出す手づかみの食べ物は必ずそうするように、何度かポイと投げ捨てた後、ばくっと一枚を口の中に突っ込んだ。

息子の目が、きらめいた(ように見えた)。

彼はもう夢中だった。
窒息するんじゃないかとハラハラするくらい勢いよくその一枚をどんどん口の中に押し込んでいき、無心でもぐもぐもぐもぐとあごを動かし、こちらが何もうながさずとも次の一枚を手に取って、やっぱり無心で口の中に入れていく。

これは……

「おいしい」んだな?

「おいしいってさー……」
ふと、旦那がぽつりとつぶやいた。
対外的な言葉だったり仕草だったりするんだな」
「どういうこと?」
「『おいしい』って言葉にしたり、にっこり笑ったりするのって、人にそれを伝えたいときじゃん。でも本当は、おいしいものを口にした時って、他のやつにそれをとられないよう、なるべく早く食べ切るのが正解なんだよ。これが人間の本能なのかもしれないな」

な、なるほど……!

人間の本能を見せつけながらパンケーキを食らい続ける息子を眺め、私は今まで食事中に息子が見せてきた笑顔やらパチパチを思い出していた。
もしかしてあの表情やしぐさは、「食事中にこうすると、どうやらママは喜ぶらしい」という学習から来たものだったのだろうか?
だとしたら今日息子は、生まれて初めて本当の「おいしい」を、食べ物によって感じることができたのか……?

だとしたらきっと、今こそ言うべきなのだ。

「いちくん、おいちーねぇ!」

息子はらんらんとした目はそのままに、ちらりとこちらを見たが、すぐに視線を戻し、パンケーキを咀嚼し続けたのだった。

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