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意識高い系が大嫌いだったのに、意識高い系っぽいことを始めた理由

○ 高校時代は「意識高い系」が大嫌いだった

誰が見るかも分からないNoteなんか始めて偉そうに語っちゃって、YouTubeでvlogなんて上げちゃって、意識高いイベント行って「地方創生」「教育」「人材育成」「ウェブ3」なんていかにも意識高い系が好きそうなことに興味を持っちゃって。

自分は意識高い系の仲間入りをしたと言える。
仲間というか、むしろど真ん中まであるんじゃないか。

そんな自分も高校時代は何か「活動っぽいことをしている人」が好きではなかった。むしろ、大嫌いまであった。

高校が国際系の中高一貫だったこともあり、活動をしている人はかなり多かった。その人たちの人格を否定していたわけではない。活動をしている友達もいた。多かった。

でも、「なんか違うんだよなあ」という感覚が抜けなかった。

国際系の中高一貫だと、ほとんどの人が人並の学力で、高1から東大を目指していた自分とはかなり学力に差があった(まあ自分も大した学力はなかったが)。

まともに数学も出来ない、日本史も世界史も出来ない、国語も出来ない。
そんな人たちが、いっちょ前に経済を語り、社会問題を語り、教育について考え、最新のテクノロジーについて議論し、格差の是正やマイノリティの支援を叫ぶ。謎のイベントに参加したり、留学に行ったりして、世界を知った気になって。

彼らは、何も知らない。何も出来ない。
自分だって、何も知らない。何も出来ない。

知らないし、分からないことだらけなのに、なんでそんな偉そうに語れるの?
その議論や活動っぽい何かは意味あるの?
やった気になっているだけじゃないの?
誰かの役に立っているの?

本気でそう思っていた。実際、ズレた議論も主張も多いと感じていた。

入試が近づくと、更にこの感情は増していった。
思考力の重要性を叫ぶばかりで、「知ること」が疎かにされていると感じた。
知らないと、思考も出来ないのに。前提の知識すらないのに。
AO入試のための塾にみんな入って。小論とか面接の対策をして。
そのための思考力っぽい何かと、リベラルアーツっぽい何かを学んだ気になって。

それは果たして本質的か?と。

大した知識もない。
論理的思考力も不足している。
持っている知識を活用して解を導くことも出来ない。
毎日必死こいて勉強している自分ですら、何も出来ないのに。
知識も論理的思考力も、知識をベースにした思考力も足りないのに。
彼らはこれで本質ぶっている。

そう思っていた。

今になって考えると、
きっとあれは嫉妬だった。
素直な嫉妬ではない。醜い嫉妬。
必死こいて勉強していた自分が惨めになったんだと思う。

自分だって社会問題を考えたかった。
誰かの役に立ってそうな活動をしたかった。
人に何かを与えたかった。
本質っぽいものに近づきたかった。

彼らが実際にどのような活動をして、どれだけ苦労をして、考え抜いていたかを全然知らないのに、一方的に本質的ではないと決めつけていた。

そして一方的に嫌っていた。

「馬鹿のくせに、未熟なくせに、それっぽいことやった気になってるんじゃねーよ」「勉強くらいしろよ」

そういう感情だったんだろう。

○ 意識の高さ”も”重要だと気付いた

受験が終わり、大学に入り、自分の中で得られた感覚があった。

いくら勉強しても、世の中は分からないことだらけだということ。
いくら知った気になっても、知らないことだらけだということ。
知ったとしても、世界は常に変化し続けるから、全てを知りえることはないということ。

こんな至極当たり前の話だった。

「知識」は重要。受験勉強で得られる勉強のコツや体力、思考力は重要。
でもそれ以上に重要なことがあるということ。
それは自分が楽しく生きるため、上手く生きるための知識や経験。
自分が社会に役立つため、世界に貢献するための知識や経験。

これはただ受験勉強を頑張るだけでは得られないということ。
これを手にするのが大学での学びであり、
その先取りをしていたのが、高校時代の意識高い系であり、
きっと大学でもそのような意識高い人はいるんだろうということ。

そう感じた。

こんな当たり前が分からなかった自分の未熟さが馬鹿馬鹿しかった。
やっぱアホだなと思った。

そして大学では決めた。学力以外の面でたくさん学ぶと。
そして無理矢理、人の反対を押し切って、自分の成長のために体育会と文化祭委員を両立することにした。きっと多く学べるし成長に繋がると思ったから。

文化祭の活動が終わり、体育会も自分の想像とは違う形で離れることになった。(詳細は自己紹介Noteで)

でも、そこで得られた知識や経験は、受験時代のモノとは違う性質が大きな財産になったと感じている。

そして今はこう思っている。

「座学的な知識」「座学で得られる思考力」も、
「議論を交わすこと」「実際に活動してみること」「現場を見てみること」も、
「社会問題について考えてみること」「批判的思考力」も、
「勉強以外の遊び」「どうでもいい時間を友達と過ごすこと」も、
全て重要なんだと。
そして、それらが全て完璧になることはないんだと。

だからこそ、同時並行で少しずつ伸ばしていけば良いんだと。
人と人とで補っていけば良いんだと。
それこそが、共同体であり、凸凹を補い合うように集団としての賢さを発揮するのが人間なのだと。人間の営利なのだと。

○ 意識高い系の構成要素を分析してみた

分析対象は

・高校時代の活動していた人々
・AO入試を受けるような人々
・社会問題について考えたり発信している人々
・起業を志すような人々
などです。個人的には就活ガチ勢の実態にも興味があるので、会ってみたい…

この辺の人達はみんな面白くて、自分にとって「こういう生き方・価値観もあるんだ」という情報を与えてくれる存在です。参考になりそうな部分は取り入れてみて、自分には合わないなと感じることは取り入れないようにするって感じです。

分析と言っても、自分が感じていることを書いてるだけなので、軽く見るのが丁度良いと思います。

○ マインド面

・「社会に貢献したい」「社会を変えたい・良くしたい」という利他的な想い
・「自分が成長したい」「何か成長しなきゃ」という成長欲求
・「かっこいいから起業してみたい」的な話
・周りが頑張ってるから自分も頑張らなきゃ、皆もやってるから…という想い(劣等感から来るものもあるかも)

色々理由はあるが、とにかく純粋で真っすぐな人が多い印象
将来・未来に対する漠然とした不安や希望、現代社会に対する違和感から来る行動?

○ なぜ胡散臭く、世間知らずに見えるのか?嫌われるのか?

知識不足
・嫉妬?見下し?
・それだけのことを「考える」余裕がある人が担い手になることが多い=金持ちのボンボンがなんか言ってらと思われる
・社会、環境、マイノリティ、経験など、主語の大きく人によって価値観や解釈の異なる言葉が使われた瞬間に胡散臭く感じる?
・活動をしているうちに、確証バイアス(?)から来るのか、活動の正当性を確信して、押し付けがましくなる危険性がある。そーゆー人は距離を置かれがち
・ちょっと社会性を欠いた、良い意味で外れ値的な存在の人もちょくちょくいる。そーゆー人は疎まれるし、そいつらは「普通」「レールに乗ること」ことを見下すこともあるから、距離をおかれがち
・意識高い人の発信は、より良い「未来」のための改革であることが多い。そうすると、今を卑下し、理想を語る、非現実的な愚かな理想主義者だと思われてしまう?

○ 意識高い人が出来ること

・知識をつけていく
・説得力のある丁寧な議論をするorそれだけの肩書的なものを持つ
・断定しない、価値観を押し付けない
・良い意味での「普通」を学び、理解を示すこと

もうなんか、マインド面は自分のこと書いているみたいになってるし、
嫌われる理由は自分が嫌いだった理由書いてるみたいになってるし、
意識高い人が出来ることって自分への戒めみたいになってるじゃん。

とは言わないでください。笑

まあ何はともあれ、こんな偉そうなことをツラツラと書くため、自分語りをしてみました。
今後も、色々な形で学び続けて、考え続けて、楽しい時間を過ごして、成長したり劣化したりしながら生きていければ良いかなと思います。

そのためにも、意識高いっぽいことを続けていこうと思います。
Noteも偉そうに書いてみようと思います。よろしくお願いいたします。

※ 注意
あくまで2023年1月10日時点でのぱたそんの個人的な考えです。この考えが今後変わる可能性は大いにあると思います。

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