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「解体新書」の歯科医学:歯科医療の日本史⑦

 江戸時代のベストセラー医学書「解体新書」。それまでコミカルな略図でしかなかった解剖図が、18世紀江戸時代後期の日本において精緻な解剖図として出版された。ヨーロッパでは2世紀も前に起きていた医学革新が、鎖国の日本にようやく流れ込んできた。「解体新書」における歯科医学について紹介する。(小野堅太郎)

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 1543年、ヴェサリウスが「ファブリカ」という精緻な解剖図を出版した。同年、中国行きのポルトガル船が、南西諸島を超えたある小さな国の小さな島に漂着する。種子島から日本へ伝来した火縄銃は、尾張国領主織田信長により新たな戦術武器として利用され、周辺国を攻撃し勢力を拡大していく。続く、豊臣秀吉による日本統一、徳川家康による江戸幕藩体制の確立、そして火縄銃と共に伝来した、カソリック・イエズス会宣教師によるキリスト教布教が発端となり鎖国政策が布かれる。150年以上に渡る戦争のない閉鎖された島国で、独自の文化が発展する。唯一の海外との入り口出島から入ってくるオランダや中国の情報。とあるオランダ医学書の翻訳として、近代医学が日本に紹介されることになる。

 解体新書の原版は、国立国会図書館デジタルコレクションから閲覧・ダウンロード可能です。本資料は「インターネット公開(保護期間満了)」となっていますので、これらの図を本記事では引用して説明していきます(扉絵もそこからです。以降のすべての解体新書画像は一部切り取りを行っています)。解説内容については、酒井シズ先生が現代語訳をされた文庫を参照しています。

解体新書

 それでは、300年前の日本の人体解剖図譜「解体新書」における歯科領域の内容についてみてみる。下の図の頭蓋骨を見てもらうと、下顎がやたらと小さい。歯に至っては、さいの目に切られたような単純な形をしており、歯の数もかなりいい加減である。数えればわかるはずのものだが、絵師の小野田直武氏はあまり歯の解剖には注意を払ってくれなかったらしい。

 頭蓋骨の左に4つの歯が別に描かれている。下図では消えているか、読み取れないが、注釈説明のためにひらがなが附ってある。左上に「を」、右上に「わ」、右下に「か」、左下に「よ」がふってあるらしい。それぞれが、板歯(ばんし〔切歯〕)、犬牙(けんが〔犬歯〕)、臼歯(きゅうし)、真牙(しんが〔智歯:親知らず〕)であり、それぞれの本数が記載されている。

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 下顎骨は、それだけで別に図示されており(下図)、骨の一般的形態を説明するのに使用されている。イ、ル、ハと、こちらははっきりと読み取れる。イは下顎頭と現在では言われており、顎の開閉時に丁番として機能している部分である。解体新書では、間接における骨頭の1代表例として紹介されている。ルは歯ですが、「釘のように挿むものは歯である」(解体新書全現代語訳 坂井シズ訳)とありますが、ちょっと意味が分かりません。

 ハは結構重要どころです。骨の外側は「皮質骨」といって堅い構造物ですが、内側は「海綿骨」といって一見スポンジ様に見える構造を取っています。骨は成長と共に内側から伸びていきますので骨の中にも血管を通して栄養を送る必要があります。そのため、骨には目に見える大きな穴(孔)から目に見えない小さな穴がところどころに空いています。その血管を調節する神経も同時に入り込んでいます。上顎および下顎になると歯がありますので、歯の中(歯髄)に入り込む神経が供給される必要があります。ですので、骨の中を感覚神経が豊富に入り込んでいます。ハのところは、オトガイ孔といって下顎骨の中を通り抜けて顎の皮膚感覚を担う神経が出てくる部位です。30年近く前の話ですが、小野は解剖実習でこのオトガイ孔を見つけ、神経線維の広がりを見つけた時は感動しました。

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 次に軟組織です。唇口編としてまとめられているところに耳下腺の解説があります。当時は「腺」という言葉がありませんでした。そこで、「キリイル」というカタカナが割り振られています。耳キリイルは、下図下段の耳の下に「ニ」として図示されています。耳下腺導管を見つけたのはニール・ステンセン(デンマーク出身)ですので、現在は「ステンセン管」と呼ばれています。ただ、Stensenはラテン語ではSteno(ステノ)となるようで、解剖用語には基本ラテン語名ですから、解体新書内では「ステノ―唾管」と呼ばれています。導管の長さ、口腔内開口部の位置など正確に書かれています。

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 顎下腺・舌下腺に関しては、「舌編」にも明記されています。ここでは、舌だけでなく、下顎骨に関わる筋肉の詳細な記述があります。下の部では右下に皮をはいだような絵(ホ、へ)がありますが、これで「粘膜」を解説しています。粘膜ではなく「上膜」と表記されています。残念ながら、舌奥にある有郭乳頭が全く描かれていませんね。

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 ここまで見てきて思うのは、これらの絵は原版のオランダ語解剖図譜の模写(コピー)であるということです。実際に解剖して、それをスケッチしたものではありません。ですので、模写時に解剖図が劣化していることは否めません。下図がそのいい例かもしれません。

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 上記の絵ですが、ヴェサリウスの「ファブリカ」に似た絵があります。下記に、坂井建雄先生が書かれた「謎の解剖学者ヴェサリウス 」Amazonリンクを上げています。この書籍表紙にある絵と比べて、左右逆、手足が切断されています。つまり、元ネタは確実にファブリカです。なぜ左右逆なのか。原図を木版に模写(トレース?)し、印刷したら左右反転します。ファブリカ出版後に多くの海賊版が出てヴェサリウスは怒りまくりますが、遠く1世紀後の日本でも同様のことが起きていました。

重訂解体新書

 解体新書は後に、杉田玄白が弟子の大槻玄沢に命じて再翻訳・再編集され、銅版画にした「重訂解体新書」(1826年刊行)というのがあります。こちらは京都大学貴重資料デジタルアーカイブから閲覧・ダウンロード可能です。銅版画となってより精細な図になっています。オリジナル版とはいくつか異なるデザインの解剖図が載っているので、違いを見るのも楽しいです。

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 『解体新書』(京都大学附属図書館所蔵)

 オリジナル解体新書より歯牙の絵がゆがんでしまっていますね。左の骸骨後ろ姿はオリジナルにない絵です。これはヴェサリウスの「ファブリカ」に似た絵があります。例のごとく、左右反転しています。

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上下ともに 『解体新書』(京都大学附属図書館所蔵)

 いずれも絵が洗練されていますね。下写真の左ページから、オリジナルにあった横隔膜を示していたファブリカ図が消えています。難しかったのかな?

 さて、「解体新書」「重訂解体新書」の口腔解剖をざっと見てみましたが、いかがでしたでしょうか。医学の発展には、絵画技術の発展も必要であったと考えます。翻訳した前野良沢だけでなく、木版を作成した小野田直武にも敬服します。

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