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食べたくないけど作りたい


前書き

実家にいたころは、自分の皿に盛られる料理を何も考えずに平らげていました。
何をいわずともご飯の準備がされている生活の中では、出されるご飯に対して、「食べる」か「食べない」かの選択はありません。食べることが当たり前のことで、お菓子を食べ過ぎでお腹が空いていなかろうが、ダイエット中であろうが、実家のご飯は出されれば食べる義務があるように思えて、そこに自分の意志は首をはさめなかったのです。

与えられていたんだな、と思います。
それが今、大人になって一人暮らしをしている中でようやく「食べる」か「食べない」の選択を自分で考え、選べるようになりました。

でも困ったことに、「食べない」選択肢をした時でも、「作りたい」時があるんです。

本題

特別料理が上手いわけでもないですが、好きなことの1つです。
包丁で刻んだり、炒めたり煮込んだり、調理器具を洗うといった1つ1つの作業の果てに、口に入れるものができて、そして食べたものが血肉になるというストーリーは単純明快で、自分が生き物であることを忘れずにいられますし、料理中はは無心にもなれるので、気持ちが落ち着かない時や嫌な思考にハマってしまった時にも、すがりつくように料理をします。
だから、食べるための料理だとしても、「食べたい」と「作りたい」が違うグループになっちゃうことがあるんです。

「作りたい」から始まる料理は、もう、栄養だの弁当に使えるかだのは一切考えないに限ります。
ただただ作りたいものを材料の限り作り、作った後にタッパーと冷蔵庫の心配はすればいいのです。今のところはどうにか収容できてます。

が、料理は作っただけでは完成ではなく、あくまで食べるまでがミッションです。その時は「食べる」と「作る」を別のグループにして、食べない選択をしてもいいけれど、腐る前には食べて、血肉にしなければなりません。腐ってしまったら、ただ食材を無駄にして自己満足を得るだけの嫌な人間になってしまう。そんな性根にはなりたくない。

我が家には冷蔵庫という偉大な文明の利器がありますから、作って保存することもできます。でも、冷蔵庫でもつのは長くても一週間程度。できれば3日以内くらいには食べたい。
思いつくままに作った料理たちは当然食べ合わせの相性など1ミリも考えていませんから、必然的に1回のご飯に和食と洋食と中華が混在するようなお盆の中身になることも。(出来合いの料理をアレンジする技術がないともいえますけど…)

ニシンのトマト煮込み4人分、ロールキャベツ大3つ、ニシンのつみれ焼き数個、豚小間肉の梅肉和えたくさん、ぶりとキノコの煮物いっぱい

ニシンもひき肉も足が速いってことくらいわかっているのに。しかもトマト煮込みニンニク入れちゃった。
毎回、こんなふうに作った後に困り果てている気がします。

結論(?)

三鷹の森ジブリ美術館の展示でジブリ飯の特別展をやっていた際、「食べることは、生きること」というキャッチフレーズがありました。
この言葉はいまもずっと覚えていて、わたしの中ではキーフレーズなのですが、料理をするというのはこの「食べる」の前段階の行為です。

食べたくないけど作りたいときというのは、もしかしたら、食べるまでの工程を手を動かして思い出すことで、再び「食べる」選択をするためのデモストレーションなのかもしれません。

総菜も外食も好きだけれど、わたしの場合は、それだけじゃ食べることの意味がわからなくなってしまう気がするのです。だからこそ、自分のことだけ考えていればいい今の生活では、家で作ることを忘れたくない。

今年の秋は、ナスのレシピを増やしたいなぁ。

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