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『まだわからないだろうけど』


私は、社会生活において相手を問わず異議は申し立てるタイプだ。

しかし、それが成立することはあまり無い。

「対話」が成り立たない。
そもそもの聞く耳が持たれないのだ。

これは、僧侶になった当初に打ちのめされ、「対話には論だけじゃなく『向き合おう』と思わせるだけの存在であることが必要だ」と強く感じた。

だからこそ、努力を積んできた。
「無視されない存在」に成りたかった。

しかし、結局言われたことは「私達は多くの経験を積んできた大人だ」「若いお前にはまだ分からないだろうけど」だった。

愕然とした。

努力して、相手を信頼して対話に臨んだからこそ、過去に経験した時よりも哀しかった。
自分のして来たことは、年齢や性別といった肩書き一つで無に帰すようなものだったのか…と、全てを否定された気分だった。

そして、ふと気が付いた。

「こんな経験が人に孤独感を植え付けてゆくのかも知れない」

年齢や性別で意見を一蹴し「理解しようとしない」行為は、相手の「存在否定」にも通じる。

同じ結論に至るとしても、相手がそれを思った理由を聞き入れて対話の末に行き着くのと、「世の中はそういうものだ」と持論を頭ごなしに押し付けるのとでは、全く違う。

そもそも、誰かの心に湧いた意見に年齢や性別・経歴は関係無いだろう。
それを受け取ることすらせず、ともすれば、その苦悩を利用して自己の経験を肯定し、承認欲求を満たさんとする行いは、相手の心を破壊するのに十分だ。

それをされた者は、対話を厭い、他者への信頼も養えず、誰を頼ることも出来ないままに人生を歪めてしまうことだろう。

これは、好意的な間柄でも起こりうる現象であることがまた恐ろしい。
むしろ好意的であるからこそ、相手を庇護下に捉え、真っ当に向き合えないこともあるだろう。

年齢や経験の持つ価値は素晴らしいし、それを否定するつもりは毛頭無い。
だが「未経験=格下」と見做し、それによって相手が得た知見そのものを踏み躙るような行いは控えるべきだろう。

子供だろうが大人だろうが、同じ世を生きる一人の人間として向き合える世界で在って欲しい。

私自身、認められることも増えたことで、忘れかけていた「存在否定」の孤独感。
少年犯罪に手を染めてしまう子供達には、これも一因として関わっていることだろう。

「許しちゃいけない人間の愚かさ」の1つ。

この愚かさは、世界がどれだけ発展しても、きっと変わらない。無くすことは出来ない。

だからこそ、過ちを認め、「向き合おう」という意識を繋いでゆきたい。

誰もが安心して「対話」をよろこべる世界へ。


ありがとう、だいすき。