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第2話 じゃ、自分たちで出版社をやってみるか?

(個人史)自主制作本との出会い

 「あらゆる人が出版社」というのはマーシャル・マクルーハンの名言だけれど、インターネットの出現で、その言葉が具現化したことは言うまでもありません。しかし、本当に「あらゆる人が出版社」になれるのでしょうか? あと、マクルーハンの名言をたくさん伝え聞いているけれど、実はマクルーハンなんて1冊も読んだこともないんですよ、ハイ。

 ま、本を作るのって、巨大な出版社じゃなくてもできるんだ、と自分が思ったのは、いつのころだったか? 「USやUKのファンジンへの憧れが……」なんて言えればかっこいいのだけど、もっとベタな関西話。子供のころから小説やエッセーよりも、マンガや雑誌の方が大好きで、その流れで、いしいひさいちの『がんばれ!! タブチくん!!』を小学校高学年、10歳のころにむさぼり読んでいました。その後、大ヒットしてアニメ化された『がんばれ!! タブチくん!!』は『漫画アクション』の双葉社からの刊行だったのだけれど、当時は単行本が2、3冊しか出ていないのが悔しくて。いしいひさいちをもっと読みたいと思っていたところで見つけたのが、やけに分厚い単行本で本屋に並んでいた『バイトくん』(1977年)でした。

 とにかくこれは元々『日刊アルバイト情報』に数年間にわたって連載されていたものを関西の情報誌の礎『プレイガイドジャーナル』社が1冊にまとめたもので、架空の東淀川大学を舞台に、明らかにダメダメなノンポリ大学生たちがぼんやりと(でもやけに楽しそうに)暮らす話。そのダメな内容自体に、本気で「こんな風に永遠に生きていきたい」と後の自分の人生を決めるほど影響を受けたのですが、それと同時に『プレイガイドジャーナル』と、いしいひさいちが在籍していた漫画の編集プロダクション“チャンネル・ゼロ”という存在を知ることになりました。『プレイガイドジャーナル』は、演劇学生が始めたような出版社……後に創刊編集長の村元武がURCの『フォークレポート』の編集長であることを知るのですが……がどんどん情報を増していく過程を見ながらワクワクしていたものです。また、いしいひさいちやみねぜっと(峯正澄)らが立ち上げ、後にマンガ評論家として知られる村上知彦も参画した“チャンネル・ゼロ”の出版していた数冊の同人誌に心惹かれたものです。プガジャ版『バイトくん』以前の、稚拙な筆致で描かれた『Oh! バイトくん』やみねぜっとの愛らしいタッチのコミック等々、同人誌でありながら一般誌とは異なる魅力を持ち、それもゼロックスコピー/ホッチキス留めのようなシンプルなものではなく、B5版でオフセット印刷/くるみ製本されている書籍が、数人の若者が始めた出版社から出ていることに驚かされたのです。

 また、当時、マンガや雑誌以外に、音楽誌を読み漁る日々でもありました。しかし、渋谷陽一や橘川幸夫、松村雄策らでスタートした『ROCKIN' ON』は、1970年代後半には、カラーグラビアが入って一般誌化していたし、それ以上に、ロックなんかじゃなくブルーグラスというマイナー極まりない音楽が自分の興味の対象だったこともあり、一般音楽誌には欲しい情報はどこにもありませんでした。もちろん海外では『Blueglass Unlimited』だの『Country & Western』だの、専門誌は山ほどあったけれど、小学生に読みこなせる英語力があるわけはなく。そこで出会ったのが、『June Apple』(1977年〜1980年)や『Blueglass Revival』(1981年〜1983年)という日本のブルーグラス専門誌でした。これらがどのくらいの部数出ていたかは存じ上げませんが、このような際立って専門的なジャンルであればあるほど、それぞれのファンたちが自らメディアを作る、そして作らなければ何も始まらない、ということを子供心に感じたものです。

刺激物としてのサブカルチャー

 音楽的な嗜好がどんどんニューウェイブやパンクと言ったジャンルへ移行していった中学・高校時代には、A5判になって以降の『宝島』や北村昌士編集時の『Fool's Mate』、City Rocker Recordを擁していたころの『Doll』といった雑誌はもちろん、『Change 2000』のようなファンジンも手にしてはいたのですが、それよりも『POPEYE』に時折掲載されていた大貫憲章らによる“ロンドン特集”のような最新の海外情報の方が興味深かったようにも思えます。また、インターネットがない時代に、UK/USの文化を隔週ペースで届ける体力は、マガジンハウス(当時は平凡出版)のような大手じゃなければ難しかったのかもしれません。加え、このころの『POPEYE』の手書きやあえて雑多感を見せていくコラージュ的なデザインも刺激的だったのです。誤解を恐れずに言えば、80年代はセゾン(西武)文化の経済的な後押しもあり、サブカルチャーやアンダーグラウンド・カルチャーが今よりもずっとマジョリティを侵食、それぞれ折り合いを付けながら混じり合っていたように思えます。

 また、自分が“編集”の力を初めて意識したのは、雑誌ではなく、当時のサブカルチャーの牙城『宝島』に連載されていた山崎浩一の『なぜなにキーワード図鑑』でした。簡潔なテーマを毎月決定し、山崎氏の客観的な切り口と極めて私感的な皮肉のレイヤーで書かれる文章、そして巧みな図版を用いてスマートに解説していく、というもの。お題がどんなものであれ、各ジャンルのほぼアマチュアである山崎氏が、一月の時間さえ用意してもらえれば、編集力とデザイン・センスで専門家を凌駕できることを証明していました。今、読み直してみても、ビートルズの項など傑作だと思います。

衝撃の『3ちゃんロック』

 紆余曲折を経たのち、大学に入って一冊のファンジンを手にします。当時、ちょこちょこ遊んでもらっていた京都が誇るお座敷ロックンローラー、バンヒロシさんに、「アマリリスとかタマス&ポチスやってる安田の本やで」と渡されたB6サイズの愛らしい一冊。3号目の“シャグス特集”だったと思いますが、こんなに面白くて無駄な音楽誌があってもいいのか、と驚き、何度も舐め回すように読み返した『3ちゃんロック』に衝撃を受けることになります。加え、そこに書いてある記事のほとんどを耳にしたことがないのに、すべてが知りたく、聴きたくなる魅惑の言葉の数々。結果、自分はシャグスはもちろん、タイニー・ティムやブレイブ・コンボ(永遠に最高!)、単なるおじいちゃんアーネスト・ノイエス・ブルッキングスのアルバムを安田謙一さんが働いていたヴィレッジ・グリーンあたりで恥ずかし気もなく買い漁ることになります。当時、P-MODEL風のテクノバンドをやりつつ、ピチカート・ファイヴのコピーバンドをやっていた輩が、1冊のファンジンでいきなり宗旨変えすることに。プロフェッショナルでもない人たちの文章に、音楽の聴き方、耳の形を変えられたのです。
 そして、驚くことに「いつかこんな冊子を自分たちの力で出したいなぁ」という感情がふつふつと沸き上がってきたのです。それまで、編集なんて興味なかったのに。それまで自分で文章を書くなんて、ほとんど考えたこともなかったのに。何の知識も何の経験もないのに、傲慢にもこう思うのです。「なんか、いつか、やれそうな気がする〜」と。

 それから10年後、僕らは自分たちの手で、アーネスト・ノイエス・ブルッキングスへのリスペクトや最高のパーティーバンド、カクテルズの遊び心がみっちりと詰まった雑誌『map』を作ることになるのです。


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