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【エッセイ】耐えきれぬ口臭

今から3年くらい前、口が臭い人とデートする羽目になった。以下クチクサと呼ぶ。

そのクチクサは、昔私が病院に勤めていたときに足の骨折で入院していた人だ。
病院ではお互いマスクをしていたし、いつも受付越しに話をしていたので、その段階では口臭に気付けなかった。
その人は全くタイプではなかったが、あんまりしつこいので仕方なく1回だけデートしてみることにした。
しかしこれが悪夢の始まりだとは想像もしていなかった…。

私たちは2人の家の中間地点である新宿で待ち合わせした。待ち合わせのときはお互いマスクはしていなかったものの、初デートらしい距離感と、待ち合わせ場所が外だったということもあり、まだ口臭には気付かなかった。
しかし、問題は店内に入ってからである。

私たちは向かい合って座り、お互いにビールを注文した。
この段階から、”おっともしや口臭いかも?”と思い始めた。しかし、まだ酒も入っていなく口数が少なかったので確かではない。
やがて酒が入り、クチクサはリラックスしたのか、喋る、喋る。そして先程までの疑いは現実となり私の身に降りかかってきた。
私は開始10分でもう帰りたい気持ちになっていた。彼は私に気に入られるべく頑張って喋っている。しかし頑張れば頑張るほど口臭はこちらにお届けされてしまっているので、むしろ喋らない方が気に入られるということを彼は知らない。
強烈な口臭に何とか耐えながら、興味もないクチクサの話に相槌をうたなければならない…。
まるで修行のようだが、まだ帰るには早すぎる。
せめて1時間くらいは付き合ってやらなければ、いくらクチクサとはいえ申し訳ない。

しかもクチクサは口が臭いだけでなく、ファッションセンスも最悪で、短い脚に真っ白なズボンを履き、どこで買ったのかよくわからないような、ギラギラと光るシルバーの靴を履いていた。
”一体私はなぜこのような罰を受けているのだろうか…。毎日静かに暮らしていただけなのに。”と遠い目をして考えていた。
クチクサにより周辺の空気全体が臭い。私は酸欠のような状態になり、意識が朦朧としてきた。
死因が口臭だなんて恥ずかしいことにはなりたくないと、朦朧とする意識を何とか引き戻して踏ん張った。

一方のクチクサは、相変わらず自分の口が臭いことにも気付かずに、一生懸命自分の身の上話などをしゃべり続けている。
私はクチクサの身の上話を適当に聞きながら、口臭のことばかり考えていた。

”一体彼は、これだけ強烈な自分の口臭に気付きもしないのか。”

”それともあんまり口が臭いもんだから、鼻までもおかしくなっているのか。”

身の上話なんかよりもこっちの方がよっぽど気になった。
しかし『口臭』とはかなりデリケートな問題だ。
私ははっきりとものを言うタイプではあるが、初デートだし、相手はやる気満々だ。
正直に「あなた口臭いですよ」なんてとてもじゃないけど言えなかった。

しかし、こっちはこんだけクチクサに気をつかってやってるのに、クチクサときたら、自分の口臭careまで怠っている。
誠に遺憾である。

口臭のことばかり考えていた私は、次第にその口臭に興味を持ち始めていた。
私はクチクサに気付かれぬよう、その口臭の原因を探るべくいくつか質問することにした。

「先程から拝見している限り、お酒をたくさん飲まれるようですが、おたばこは吸われるんですか?」

まずはこの質問をクチクサに投げかけた。
答えによっては、その口臭の原因がたばこによるものなのかどうかが炙り出せる。
私はクチクサの歯に目をつけていた。
クチクサの歯はどうもヤニっぽかったので、このたばこ説が濃厚だと考えたのだが、答えはNOだった。
しかし2年前まではヘビースモーカーだったらしく、私は”長年のたばこの臭いがこびり付いている説”も考えられると思った。

次に口臭の原因になりうる飲み物、コーヒーに関する質問にうつった。

「たばことコーヒーはやはりセットで嗜まれることが多いですが、クチクサさんもコーヒーはよく飲まれていたんですか?もしくは今でもよく飲んでいるのですか?」

クチクサの答えは、たばこを吸っていたときはもちろん、今でも1日5杯のコーヒーを飲むということだった。

私はピンと来た。なるほど、長年のたばこの蓄積した臭いと、過度なコーヒーによる臭い、そして話を聞いている限り仕事上のストレスも多いと見受けられる。原因はこの3点といったところか…。
このように分析した。

私は口臭の原因を突き止めてしまったため、一気に暇になってしまった。
クチクサは相変わらず臭い口で自分の話を永遠と喋っている。
私はなるべく鼻で息をしないように口呼吸に移行し、なんとか耐えていた。
するとクチクサは2軒目に行こうと言い出した。
もちろん私は行くつもりなどなかったが、外の新鮮な空気が恋しくて堪らなかったので、とりあえずOKして外に出ようと思った。

クチクサは会計を済まし、私たちは外に出た。
私は何とか言い訳をひねり出し、2軒目には行かないことを伝えたものの、クチクサは言うことを聞かない。
何回断っても、クチクサは自身の口臭のようにしぶとく誘ってくる。

私はそんなクチクサの必死な様子から、このような考えが浮かんだ。
”クチクサはまさかそのとてつもなく臭い口で、今日中に私の唇を狙っているのではないか。”

そして、『まだ死にたくない。』
そう切実に思ったのである。

次の瞬間、私はとっさに自分の命を守るべき行動をとっていた。

私はクチクサに、「もう勘弁してください!」という意味深な言葉を残し、踵を返して逃げ去ったのである。

私は必死になって走った。後ろにクチクサの気配がした。
場所は新宿。幸いなことに人が多い。逃げるにはうってつけだ。普段は嫌いな場所だが、この時は新宿にどれほど感謝したことか。私は人々をかき分けるように走って走って走り続けた。

『絶対に捕まってはいけない。』
そう私の脳から本能的な指示があり、私はまるで森の中で野生動物に遭遇したときのようにジグザグに逃げ、目くらましした。

クチクサの気配はやがて消えていたが、私は恐怖心のあまり、電車に乗るまで走り続けた。
電車に飛び乗り、その電車が無事発車してくれたときの喜びは今でも忘れることができない。
こんな事になるなら早めの段階で口臭を指摘しておくんだった…。
”口臭を面と向かって指摘できるような強い人間になろう。”とそのとき切実に思ったのであった。

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