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メッシュワークとティム・インゴルド

常に必然である偶然的な出会いによって、ある日私の目の前に一冊の本が登場した。

書籍との出会いは不思議なことにその都度必要な情報を必要なタイミングで新しい発見をもたらしてくれる。

私は時々迷ったり悩みが行き詰まったりすると書店に行って、棚のあちこちを見て回る。
元々興味があるジャンルから全く関係したことがないジャンルまであらゆる棚をゆっくり見て回ると解決の糸口が棚から提示されることが多い。

今回は文化人類学者ゆーぽん氏から手渡されたバトンだった。

ティム・インゴルドの著書『ラインズ 線の文化史』


この本からは多くの学びや発見があったのだが、その中で極めて個人的にだが精神的なエールと思えるような一文にも出会った。

p.41
「すなわち、あらゆるテクスト、物語、旅は、見出される対象ではなく、踏破される行程なのである。」

ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』(左右社)

読むこと、記憶することについての話の中でこの一文が登場する。

今を生きるとは何か、

これまでとこれからの道のりは何の意味があるのか、

価値があるとは何か、

自分は一体何をしているのか、

湧いては消える常なる疑問に切れ味よく答えてくれるようなワンシーンがこの一文を含むこの本の40ページから41ページに展開されていた。

ティム・インゴルドがこの本の中で考察する「徒歩旅行」と「輸送」については何かを考える際に非常に参考になる話だ。人生の歩み方としてどちらが正解という話ではなく、もっと根源的な部分を考えさせられる。

「徒歩旅行」の話について

p.135
「その小道には始点も終点もない。道の途中において、彼は常にどこかの場所にいる。」

ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』(左右社)

そして「輸送」については

p.135
「それに対して、輸送は特定の場所に結びつく。すべての移動は人や人の財産を別の場所に移すためのものであり、特定の目的地に向かう。旅行者はある場所から出発して別の場所に到着するが、そのふたつの場所のあいだのどこにも存在しない。」

ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』(左右社)

と述べている。

私の脳みそはこれまで「輸送」に偏りがちで、「徒歩旅行」を否定しがちだったのではないかと考えた。「輸送」を「輸送」として認識して移動しているのなら良いのだが、私の場合は「輸送」をしていたのにも関わらず、そこから「徒歩旅行」の要素を無理やり探していたのだ。それは見つかるはずもない。見つからなければその移動が無意味に思えてくる。

「輸送」が悪いという話ではない。「輸送」をするならそれは「輸送である」と認識することが必要だ。人の歩みの跡が織り重なり、メッシュワークになり、線が面を作り出す時が来ても、線そのものは無価値ではないし、必ず面に仕上げなければならないわけでもない。
多分、生きる限り、放っておいても否が応でも勝手に細線が太線になったり面になったりする部分が出てきてしまうだろう。

私の場合は時々不安に思ったとしても、もっと線を信頼して、俯瞰的な目線も持ちながら私は今メッシュ部分のどの辺りなのかも同時に考えられるようになると良いのかもしれない。線をどんどん分解してドットになるまで突き詰めるような見方をしがちなのだが、線はドットの連続であると同時に面を生み出しているのだと。

この本の中ではこれらの話の他にも、良いパートがたくさんある。アート好きな私としてはリチャード・ロングの《歩行による線》(1967, イギリス)の例はとても腑に落ちるものだったし、実は音楽科出身の私としては古代の楽譜の記譜と記譜法の話はとてもすんなりと受け入れられ、理解を深めやすい話だった。

この著作全体を通してティム・インゴルドは様々な具体例を用いながら私たちが生きている「ラインズ」の存在を明らかにしている。

本を読みながらタイトルを思い出して欲しい。「ライン」ではなく「ラインズ」なのである。生きることで編み出される線は一本の長い長い線のようでもあり、あらゆることと関わる複雑に織られた線同士でもあり、気がつけばどこからどこまでが線なのかもわからなくなるようなものが自分の周りに埋め尽くされていたりもする。

この本は「線」をテーマにしてはいるけれど、人間が生きるという根源について考えさせてくれる素晴らしい本だった。

この本に出会わせてくれたゆーぽんは最近フィールドワーク中のようで、
団地に住みながらの研究活動を行っているようだ。
彼らの活動についてはこのnoteにもページがある。
文化人類学や生きること、人の営みや、存在について時々興味があって考えているなあという方はぜひ合わせてこちらもどうぞ。




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