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エシカルで倫理的消費のSDGs(これは呪文です)

自分にとっての倫理について明確に定義もできないのに、エシカル消費つまり倫理的消費なんて出来るはずがない。しかし人々は「なんとなく良さそうなことをしている自分が好き」と思い、流行りに乗りたくなり、そしてそんな消費者の心に漬け込むようにして「これはエシカルな物ですよ」というラベルをベタベタ貼り付けた商品が販売される。
エシカルのファッション化は、時に大きな誤解を生んだり、小さなズレから本筋にはもう2度と戻れないくらい遠くまで流されたまま一人歩きしていく物を量産したりする。

もちろん中には本気で現状を変えたくて必死で物作りをしていたり、一人でも多くの人に知ってもらって手にして買ってもらいたいと頑張っているものもあるだろう。けれど、いつの間にか「エシカル」が消費され、「エコ」が消費され、「フェアトレード」や「ヴィーガン」が流行り、挙げ句の果てにSDGsという「自分その読み方知ってまっせ」というのがドヤ顔になるような、消費の権化のような謎まで登場し始めてしまった。
世も末である。

私は仕事上、そういった地球環境に配慮した動きや何かのキャンペーンに、広く浅くだとしても、結果的になんとなく関わってしまうことが多かったように思う。もちろん、それらは「お仕事」なのでクライアントさんの意向を汲んだ対応をがっちりとさせていただいてきた。しかし、「お仕事」が終わりいざ個人の私に戻った時に、どうにもモヤモヤとした雲が心にどんより残っていたのを覚えている。その雲は消えることなくどんどん濃くなり、腹の奥の方へ沈み込んでいった。

その溜め込んだ問題の宿題に私は一つひとつ、今になって取り組み始めている。
それは、やってもやらなくてもいい宿題かもしれない。
誰もそんなことを考えろと、私に強要はしていない。
でも、正直に言えば、私はそれらの宿題を、もう無視できない気持ちになってきてしまったのだ。宿題に取り組み、ある一定の答えを出すことで、先の仕事がなくなるかもしれないし、扱いづらいヤツだなとなるかもしれないことも想像に難くないのだが、それでももう、自分に問い、答えを探しながら生きるしかなくなってしまった。生きづらさも溜まりに溜まりすぎると、オブラートに包みきれなくなるらしく、どうにもならない。

そして約1年半に渡る、「こびりついた忖度を卒業する旅」をここまでしてきて、ようやく、まずは問題がどこにあったのかが、最近見え始めてきたところである。

それにしても問題は山積みなのだが。一つひとつ、根気よく考えていくことにする。

さてそんなわけで、本日はエシカル消費、倫理的な消費についてである。

単語「倫理的消費」をネット検索すると私と同い年の天才であり、私の好きな哲学者であるマルクス・ガブリエルの提唱する考えに関連した記事が多数目に付く。
彼の考えは今や企業を動かす力を持ちうるものだと思う。消費に関わる話である以上、たくさんの「商品」を消費者に消費させる役割を担う企業が動かなければ、どんなに良い理論であっても現実の世界を変えていくのは難しい。だからマルクス・ガブリエルのやろうとしていることは、世界的天才が担う役割として素晴らしいことだと思う。

であるが、今回は、その話ではない。
もっともっと小さな、個人の、草の根運動レベルの問題である。

まず私自身が個人として、納得した倫理的消費をしていくには、一体どうしたらいいのだろうと考えた。
そこから見えてきたことがある。
私は、私自身の不勉強さゆえに、自分の中の倫理の定義がきちんとできていないままだった。全く無い訳ではない。いくつかはある。けれどそれは自分自身の言葉で考えた強固な心の在り方とは言い難かった。
常に誰かが良いといったことを鵜呑みにしがちで、阿りが重なり、自分の言葉で考えず、そして考えるトレーニングもしっかりしてこなかったツケが回って、ただモヤモヤとした心の澱だけが残っていった。

多分、いつも心のどこかで「そうじゃないのに」と叫んでいた。でもその小さな言葉は、「お仕事ですよ」という何か強いものに飲み込まれて蓋をされてしまっていたし、トレーニングをサボってきたおかげで「じゃあどう違うんですか?」という問いには答えられないままだった。

私は別に、何かに対して反旗を翻したい訳でも、反論したい訳でもない。何かを否定したいのでもない。ただ、自分の中に、きちんと自分なりの基準を持って生きていかねば、とようやく気がついた。その基準は、誰かにわざわざ言わなくてもいい。自分さえしっかりと知っていればいいことだ。

なぜ急に倫理的消費の話が出てきたかと言えば、最近私が考えていた「食べることとは、私にとって何なのか」の問いに対する一時的結論から、今回の思考が始まっている。

この私自身への問いに対し、断食を通じてある一定の結論まで辿り着いた私は、今度は「では食べ物を自ら狩猟採取していない私は資本主義の中で購入するという手続きを踏む。そのため、次に考えるのは、食べ物としてどんなものを購入するのか」という段階に至った。

ちなみに食べることへの問いに対する一時的結論の一部としては、「ご飯は食べても食べなくてもいいんだな」という不食的な結論も導き出しているので、毎日必死に3食分をしっかり選んで購入しなくてはならないという心理的圧力からは解放されている。しかし全く食べない訳でもない。一時的結論として出したように、誰かとの有意義なコミュニケーションとしての食事は楽しみたいと思っている。その中で、どんな食べ物にお金を払えば、自分がストレスがなく暮らせるのかを考えようとして出てきた話が、先に始まった倫理的消費の話なのである。

例えば家の冷蔵庫に食材をストックしようと買い出しに出かける時。それは家族のための食材であることも含んでいるのだが、食べ物を買うという行為を私が担当する場合、選択権はほぼ私にあるわけで(これこれがどうしても食べたいから買ってきてという御使いを除く)、私が私の基準で考えて選んで購入しなければならない。

食べ物に関わるストレスを減らすために、「食べなくてもいいんだよ」と自分に優しくなること以外では、買い物という消費行動でストレスを溜めないようにすることが必要だ。つまり、自分が何にストレスを感じるのかを知ること。そこから考え始めたところ、私は私の基準をしっかり持った上で納得して倫理的消費をしたいのだと気がついた。
しかしここで、一周回って振り出しに戻るのだが、「じゃあ私にとって本当の倫理的消費って何なのさ」となる。私は全然考えていなかったし、全然わかっていなかった。
まずは、倫理的消費がしたいんです云々の前に、私にとって倫理的行動や倫理的消費とはどんなものかを自分の頭と言葉できちんと整理することろから始めないといけないのだ。

エシカルやエコのラベルがついていても、納得できないなら、それは違うし、そんな認証を取得していない商品でも自分がきちんと考えて理解して買おうと思える、自分の中での「倫理的消費」基準を満たしたものなら、それで良し。要は、誰かが決めた流行りの基準に流されるのを、今すぐ辞めて、自分の頭で注意深く考えなければならないということなのだ。そんなことは当たり前のことなのに、忖度が習慣になって、そんな当たり前のことすらちゃんと考えることができない腐った脳になっていたのかもしれない。資本主義と忖度はとても遠くにある単語のように見えて、実はとても近くにあるもののような気がしてきた。エスデージーズさんも実は親戚なのだろう。

今日の話もすぐに結論が出せるような問題ではないかもしれないのだが、せめてちゃんと自分の頭と心で考えているのか、自分の判断を一旦は疑う癖をつけることから始めてみるしかない。

さてしかし、今日はここまで一気に書いているのだが、この言葉の洪水は何がきっかけで出てきたのかと言えば『坂口恭平の心学校』という本を読み始めたことだった。まだ2章の始まりまでしか読めていないし、ここまで読んできて本の中に消費について何か詳しく書かれていた訳でもないと思うのだが(第1章はテーマが建築だったし)、建物を建てない建築という坂口恭平さんの在り方を読みながら、突如自分が今向き合わなければいけない問題がポンっと飛び出てしまったのだ。
不思議なものだ。私の中のどこにスイッチがあって、何によってどのスイッチが押され、どこで何が出てくるか、わからない。しかしこの本が私の何かの扉を開けちゃったことは確実だ。時々こういうことがあるから、考えることは面白い。


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