【読書感想】『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク)
最近、本棚に光文社古典新訳文庫の本が並ぶ頻度が増えている。
古典をきちんと読んでおきたいという気持ちがあるからだが、どうも岩波の訳文や文章が受け付けないことも多く、何かいい方法はないかと辿り着いたのが、光文社古典新訳文庫だった。
今回読んだのは、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』
クラークといえば、SFの原点。
ただ、今作は楽しむ以上に、考えさせられた。
以下、ネタバレ含むのでご理解いただきたい。
物語あらすじ
ストーリーは、人類が宇宙進出を目指そうした20世紀後半から始まる。
宇宙進出を目指した途端に、地球上空に現れた宇宙船。
オーバーロード(最高君主)と名付けられた生命体は、姿を見せることなく人類を統治し、地球全体を平和で理想的な社会とした。
圧倒的な知能と技術力をもって。
彼らが地球に来た目的は明かされず、かわりに50年後に人類の前に姿を現すと約束をする。
そして時が経ち。
オーバーロードが人類の前に姿を見せる頃には、彼らが地球にもたらした技術や知見は、地球全体の発展になくてはならないものとなっていた。
そのため、彼らが異形の姿をしているとて、人類はもはやその事実に驚かない。
敵わないもの。従うべきもの。
として、人類はあっさりとオーバーロードの存在を受け入れる。
ただ、この時点では、オーバーロードが地球に来訪した意味を、まだ人類は知らない。
しかし、オーバーロード側は、人類のとある何かを待っている様子。
待っているものは最終章で明かされる。
待っているものは、人類を超越した何かが、人類から産まれるブレイクスルーの瞬間。
このブレイクスルー以降産まれる子どもは、姿形こそは人間であるが、オーバーロードをも超越する上位存在(通称・オーバーマインド)として進化を遂げていた。
オーバーロードは、より上の生命体から命じられて、地球にオーバーマインドが誕生する瞬間を見守ることが任務だったと告げる。
その任務が完了した瞬間、これまでの人類や地球は無となり、人類から産まれたオーバーマインドは他のオーバーマインドの生命体と合流し、オーバーロードは地球を去る。
ざっくりとだが、ストーリーはこんなところ。
そもそも、これが1950年代に書かれた作品であることに、驚きを感じる。
描かれた内容の中で気になった箇所がいくつか。
人類が向かった方向
作中の世界は、国家間の争いの只中にあった。
そんな中、オーバーロードは、人類が辿り着き得ない武力や技術、統治手腕により、世界統一そしてボーダーレス化を成し遂げた。
戦争や部族対立はオーバーロードにより禁止され、禁を破ろうとすればオーバーロードにより、粛清される。
なぜなら、オーバーロードは徹底した行動監視を行うことができるから。
一種の管理社会の成立とも言える。
世界が管理社会化した後、人類はどうなったのか。
一応、発展は遂げた。
オーバーロードの技術を用いて、という注釈付きで。
しかし、人類の創意工夫を用いて発展した産業は数少ない。
科学技術の発展や、芸術の開花は見られない。
かわりにエンターテイメント産業といった娯楽産業ならば発展を遂げた。
また、誰もが必要なものを享受できるという意味では、社会主義への移行も進んだ。
物資、娯楽、住環境さまざまな分野は誰でも享受できる社会となっている。
発展を望まない。
という意味で民衆の愚鈍化が書かれている。
人類にとってのオーバーロードが、とある作品の「ビッグブラザー」に見えて仕方がない。
オーバーロードの悲哀と希望
本作は、三部構成で描かれているが、語り部のほとんどが人類である。
その語り部の殆どが、オーバーロードを人智の及ばない敵わない相手として描いている。
ところが、第三部において、実は人類がオーバーロードを超える突然変異を遂げる存在(オーバーマインド)であることが明らかになる。
オーバーマインドは、会話せずともテレパスで意思疎通を測ることができ、大気に干渉することも、月の軌道を変えることすら造作もない。
対して、オーバーロードは、子どもを産み出すことができない。
そのため、長年の経験による成長はできても、種の繁栄・存続を行うことができないため、オーバーマインドになるための突然変異を起こすことはない。
そのため、ある意味中間管理職のような立場にある。
オーバーマインドから指示を受け、下級種族からオーバーマインドが誕生するのを見届けるという、自身らにとっては嫉妬に狂ってしまいそうな業務を受け持っている。
その心中は穏やかではないだろう。
しかし、それでも最後まで人類に協力的であるのは、自分たちのなし得ない夢を託したいというパターナリズム感が根底にあるのだと受け止められる。
最後に人類は滅亡するという結末だが、どこか希望が感じられるのは、オーバーロードの立場で考えるようになってしまうから、、という要素も少なからずあるだろう。
タイトルの「幼年期」に込められたメッセージ
読み始める前からずっと謎だったタイトルについて。
原題も"Childhoods End"であり、邦題化にあたり手が加えられたわけでもない。
そのまま解すれば、幼年期=子ども時代と捉えられそうだ。
第三部において、超進化を遂げるオーバーマインドがすべからく子どもであることを意味して「幼年期」としているのか?
だとしたら、なんかメッセージ性が弱い気がする。
そうではないと思う。
人類全体のことを「幼年期」と称しているのだと解する。
超進化により人類が終わりを迎えることを『幼年期の終わり』という題に込めたのだと信じたい。
先にも述べたが、本作が人類の滅亡という結末になりながらも、悲観的な作品となっていない。
これは完全な主観だが、著者のクラークが人類の平穏を願いつつ、まだ進化の見込みがある(=まだ人類は幼年期だよ)という想いを込めて『幼年期の終わり』という題をつけたのだと思う。
同時期に発表された『1984年』と違う読後感なのは、本作が風刺的な作品ではなく、著者の願いが具現化された作品だからかもしれない。
おわりに
雑文でつらつらと書きすぎたが、頭の整理もあり、吐き出せてよかった。
最後に言うとしたら、光文社古典新訳文庫は読みやすいのに加えて、解説がとても良い。
多少、書籍代が嵩むものの、解説にかけるお金込みだとしたら、全然お釣りがくるくらいだと思う。
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