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ある本屋で、コーヒーと。3

続きものです。
からお読みください。

 それから1ヶ月ほど、彼がカフェで仕事をしている毎週水曜日は勤務終わりに一緒に読書をすることが二人のルーティーンになった。彼と会うと幸せを感じられたが、彼の気持ちを確かめたいという衝動に駆られることも増えて、自分の気持ちを処理するのが困難になってきているのを自覚していた。

 私はこんなに欲深い人間だったのかと自己嫌悪に陥った後、しばらくしてから、約束もないのに毎週会うというのは恋人だと思っているからではないか、少なくとも好意を寄せてくれているはずだと自己肯定をする。その繰り返し。彼がいない日もカフェに行っては、もしかして誰かが病気で彼が急遽シフトに入ることになったりしないかと半ば待ち伏せのように通う日々が続いていた。
 しかし、そんな毎日に嫌気が差していた。それは彼の気持ちが確かめられない臆病な自分にも、何も言ってくれない彼にも。そして、心に抱えたままの違和感にも。

 私は決意した。カフェに行くのを止めようと。
 彼の勤務日である水曜日だけは行くことにして、他の日は別のカフェに行く。そうしないと待ってしまう、期待してしまう...それは普通に考えて、ただの重い女だ。私はまだ自分を客観的に見る精神を保っていたい。恋愛に溺れていく女をこれまで腐るほど見てきた。自分を見失い、男にすがり、結果的に自分も破滅していく女を。そんな女にある種の羨ましさを感じつつも、あぁはなりたくないと、線引きをしていた。いや、線引きなど生半可なものではない。そこは深くて広い溝があって、あんな女たちはこっちに来ることなどできない。私には、理性がある。

 しかし、読書はしたい。いつものカフェではなく、違うカフェにも通うことにした。そこは本屋は併設していないが、店内のスペースが広く、長時間過ごしても目立つことはない。【待津野ひまわり】の本と、ある実業家の指南書を手に、注文カウンターへ向かう。コーヒーのSサイズを注文し、受け取ってから、横並び席の一番端っこに座った。本をいい感じに並べて、コーヒーを横に置いて、スマホで写真を撮る。そして、インスタにアップする。

ハッシュタグは
#待津野ひまわり
#カフェ
#読書
#コーヒー

 自分のインスタを見返して私はあることに気付いた。珍しく「いいね」が付いている。フォロワーのいない私のインスタに「いいね」が付くことは事故的にたまにあるが、その人はこれまでの私のすべての投稿に突然「いいね」を連打している。アカウント名にも心当たりがない。ただ、引っかかるところはあった。その人のアイコンが「ひまわり」の写真だったからだ。

・・・もしかして、待津野ひまわり??

 そんな訳はない。ひまわりさんが読者に「いいね」をしているなんてそんな浅はかなこと。じゃあ誰なんだろう、思い当たる人もいないはずなのに考える自分を少し笑った。


「お疲れ様」

 聞き覚えのある声がして、私は振り返った。私の左斜め後ろの二人掛けの席に、彼がいた。しかし、お疲れ様は私に向けられたのではない、彼の向かいに座る女に向けられていた。咄嗟に、見つからないように顔を伏せた。そんなことしなくても、彼は私に気付いてなんかいないのに。目の前の女に、いつもの笑みを向けている。女はカラコンをして、化粧バッチリで、髪はしっかりと巻いて、淡いピンクのワンピースを着た、いかにもな女だった。そう、いかにも、男に溺れそうな薄っぺらい女。

「これあっという間に読んだぁ」

 女の甘ったるい声が響いた。いや店内はざわついていたから、私の耳だけがその声を捉えたのかもしれない。粘着質の声が耳にまとわりついた気がして、二度ほど手を払った。一体何を読んだというのだ。女は続けて言った。

「アオイ君のおすすめは外れがないもんね」

・・・アオイ?

 相手に自分の顔が見えないであろうギリギリのところまで振り返って、視界の端っこ角度120度あたりで彼を捉えた。彼は手を伸ばし、女の頭をポンポンと撫でて優しく言った。

「そう言ってくれて、嬉しいよ」

 私は頭に血が上るをハッキリと感じた。
 殺してしまえばいい。
 あんな女、死んでも誰も悲しまない。
 私は私の目的を果たすまでだ。

 待津野ひまわりにしては、ハードボイルドな刑事モノの本だった。今まさに主人公が目の前の憎き女を殺そうとしている。私は主人公と完全にシンクロしていた。だが手元には銃もなければナイフもない。私には今、誰も殺せない。

「カワイイ名前だよね、待津野ひまわりって」

・・・待津野ひまわり?

 こんな外見だけの女が、彼女の本を読んでいると言うの?彼女の本の良さは、私と、彼だけが知っていればいいのに。私は確信した。彼女の本を読む人と出会って嬉しかったのは、彼だったからだと。

ガタン。

 イスを引く音がして、彼がトイレに立ったと分かった。振り返ると、女は一人、暇を持て余したのかスマホを操作し始めていた。

 私は立ち上がり、女の背後に忍び寄った。
 女は気配を感じ、ゆっくりと顔を上げた。
 私は手に持ったハンカチを細く細く絞って、彼女の首へ巻き付けた。

ガタン。

 女は思い立ったように、化粧ポーチを持って、小走りでトイレへ行った。私は読んでいた本から目を上げ、その後ろ姿を目で追った。くびれた腰と茶色いウエーブの髪が揺れている。女が視界から消えてから、自分の本をバッグにしまい、立ち上がる。二人が座っていたテーブルを見ると、確かに待津野ひまわりの本がそこに置いてあった。ごく自然に、その本を持って、私はカフェを出た。

 どうしてこんなことしてしまったんだろう。自責の念にかられて、頭を抱えた。それから、自宅のテーブルに置いてある二人が話題にしていた本を眼球が乾くまで瞬きもせずに見つめた後、ぎゅっと目をつぶる。3秒待って、ゆっくりと目を開く。ある。そこに本は変わらず、あった。消えてもないし、動いてもない。小説の中だったら、魔法のように消えたりするのに。
 勝手に持ってきてしまった、いや正確には盗んでしまった事実は動かなった。今頃彼と彼女は忽然と無くなった本を探しているだろうか、それとも神隠しにあったと笑っているだろうか。二人が笑い合う姿を想像しては、悔しさと情けなさで胸をかきむしった。

 アオイ、君・・・

 あの女がそう呼んだ、彼の名前を呟いてみた。今まで名前すら知らなかったという現実は、バリウムのように飲み込むのに時間がかかった。私にとって彼は、何なのか。頭に不等号を並べてみる。

他人 < 知人 < 友人 < 恋人

 なるほど、私は知人だったのか。名前すら知らないのに、恋人かもしれないと妄想していたなんて、愚かなのは私。じゃあ彼はあの女と付き合っているのだろうか。あの、【待津野ひまわり】を読んでいるという女と…。

 いくら問いかけても、本は何も答えてくれない。でも私に何かを訴えようとしているように見えた。部屋の壁一面に設えた本棚に目を遣ると、ちょうど私の目線の先にはオリジナルの【待津野ひまわり】コーナーが見える。その真ん中あたりに、同じ本がある。それは、1ヶ月前に初めて彼と出会ったときに彼が持っていた本。夢と現実が交錯しているのは、私…?

 ある疑念が曇天のように胸を覆い始めていた。

続く。

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