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『始まりは、そして終わりは』 # シロクマ文芸部

始まりはいつも一本の電話でした。
そう、物語の始まりは、いつも。
彼の場合もそうだったのです。
仕事が休みの日曜日。
妻が買い物に出かけた昼下がり。
ほら、電話が鳴り出しました。
でも、こんな日にかけてきそうな相手が思い浮かびません。
いぶかしがりながら、受話器をあげます。
「あなたの奥さん、浮気していますよ。駅前のマンションの…」
しわがれた声は、部屋番号を告げて切れました。
まさか。
彼が受話器を戻すのと、妻が玄関を開けるのがほぼ同時でした。
何かのいたずらに違いない。
きっと手当たり次第にかけて、どこかの物陰からこっそり反応をうかがっているのだろう。
その手に乗るものか。
誰もがそう思うように、彼も思いました。
それから、一週間。
日曜日の午後。
同じ頃に電話が鳴ります。
無視しようかとも思いましたが、もし大事な連絡ならと受話器に手を伸ばします。
今更ながら、ナンバー表示にしていなかったことを悔やみました。
「あなたの奥さん…」
あの、しわがれ声です。
そんなことが、このあと2回ほど続いたでしょうか。
始まりが一本の電話なら、終わりはほんの出来心でした。
金曜日の仕事帰り。
駅に降り立った彼は、ふとあのしわがれ声を思い出します。
そのマンションはすぐそこです。
彼は歩を進めました。
部屋番号も、もう頭に入っています。
エントランスでインターホンを押すと、何も言わずに自動ドアのロックが解除されました。
彼は迷いました。
人生に分岐点があるとすれば、彼の場合はその時だったのかもしれません。
迷った挙句、彼はドアに向かいました。
エレベーターで目的の階に上がります。
部屋番号をたどって行きます。
その部屋のドアは少し開いていました。
彼がそっと顔を近づけた時。
後ろから誰かに押されたように体が前によろめき、背後でドアの閉まる音がしました。
ドアの中は真っ暗闇です。
彼のもの以外の息遣いが聞こえます。
「つかまえました」
それは、聞き覚えのある、あのしわがれ声です。
そして、次の声を聞いた時に、彼がどう思ったのかは、今となってはもう知りようがありません。
それは、妻の声でした。
「こいつはうまそうだ」


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