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『何かがいる』

何かがいる。
そんな気配を感じることは、別に珍しいことではないだろう。
誰でも、深夜ひとりで机に向かっている時などに、背後に何かを感じることはあると聞く。
心理学的に何と呼ぶのかはわからないが、少なくとも、心霊現象などではない。
そもそも、私はそんなものは信じてはいない。
戦場ジャーナリストとして名の通っている私が、幽霊などと言い出せば商売にならない。
日本人の誰よりも、自衛隊の隊員よりも、捜査一課の刑事よりも、あるいは終末医療の看護師よりも、多くの死に直面してきた。
マイクを向けていた相手の頭が、目の前で一瞬にして吹き飛んだこともある。
本来なら安全であるはずの取材班用のホテルが爆破されたこともある。
瓦礫の中から這い出した時に真っ先に心配したのは、自分の体よりも、カメラや録音機などの機材だった。
隣の部屋に泊まっていた東南アジアからの記者は、パソコンを庇った姿勢で息絶えていた。
そんな日々を送ってきた私が、死後の世界がどうのとか、魂がどうのとか、考えられるわけがない。
人は死ねば終わりだ。
そんな物質にすぎない。
ところが、最近、何かがいるのだ。
それは気配には過ぎないが、誰でもが感じる気配とは別のもの、もっと存在感を備えている。
部屋でひとりで原稿をまとめている時だけではない。
大勢のスタッフと食事をしている時にも、私の左か右の斜め後ろにじっと立っている。
歩いている時にもそうだ。
目に見えるわけでもなく、足音が聞こえるわけでもない。
ただ、それが発する、ここにいるぞという主張のようなものを感じるのだ。

私は中東の国から戻ったばかりだった。
その国の内戦を取材していた。
内戦の原因は宗教と民族の対立が複雑に絡み合い、解き明かすのに難しいものだが、そもそもは大国の帝国主義が招いた悲劇だった。
その地で、途中で何度か帰国はしたものの、足かけ9か月、取材活動を続けた。
国連が介入して、ようやく落ち着きを見せてきたところで、その国を後にした。
これから、約1週間で特集の記事をまとめなければならない。
評判が良ければ、単行本の声もかかるだろう。
ところがだ。
この見えない存在のせいで、いっこうに原稿がはかどらない。
恐怖心ではない。
いや、恐怖心があるとすれば、そんなものを感じるようになってしまった自分に対してだ。
こんなことが話題になってはたまらないので、少し離れたところの小さな心療内科を受診してみた。
結果は思っていた通りで、特に問題はなく、念のためにと安定剤を出されただけだ。
試しに安定剤を服んでみたが、そんなものが私に効くわけもない。
いよいよ困って、信頼のおける知人に相談してみた。
お祓いをしてもらえば、と言うのが、彼の第一声だった。
信じてる人なんていないさ、誰も。
彼はさらに続けた。
それでも、もう除霊しましたって言われれば、楽になるものだよ。

その知人の妻のさらに知り合いの紹介で、ある霊媒師を訪ねた。
古い寺や神社のような建物、さらには僧や神主の副業のようなものを想像していたが、そこは住宅街の中のなんの変哲もない、同じような造りの家が建ち並ぶ中の一軒だった。
インターホンを押して出てきたのも、セーターにジーンズの、サラリーマンの休日のような中年の男性だ。
私が自己紹介をすると、男性は取引先の営業マンを招き入れるように、奥にうながした。
彼の家族は留守のようだった。
リビングから短い廊下を挟んだ向かいの和室。
私を床の間を背にして座らせると、自分はその向かいの壁にぴったりと背をつけ、そのままゆっくり腰を下ろす。
近すぎるとこちらに取り憑くんですよと、男は掛け軸の説明をするように話す。
私は彼の言うままに目を閉じた。
しばらくすると、それは10分くらいもかかっただろうか、目を開けてください、見えましたと、彼は機械の不具合の原因がわかったかのように言った。

それは若い女性だと言う。
まだ、10代の半ば、あるいはそれ以前。
心当たりを尋ねられるが、そんな知り合いはいない。
ましてや取り憑かれるような覚えもない。
同業者の中には、取材と称して少女買春にのめり込む者もいる。
しかし、私はそのようなことはしない主義だ。
別にいい人ぶっているわけではない。
仕事のためなら、多少の悪事にも手を出す。
ただ、弱者のその境遇につけ込むようなことはしたくない。
私のような仕事は、最低限の正義、それは利己的なものであったとしても、その正義がなければ、何のために取材をしているのか、わからなくなってしまう。

かなり痩せています。
そう、霊媒師は言った。
左目の横に傷の跡があります。
左目の傷、の跡。
記憶が半年ほど、遡る。
現地で、取材をしているときに、ひとりの少女と出会った。
日本でなら、中学生の歳だが、もちろん学校などには行っていない。
父親は軍の捕虜として連行され、生死もわからない。
兄は味方の流れ弾に当たって亡くなった。
今は、3階から上が崩れ落ちた建物の1階の隅に、母親と叔母とで暮らしていると言う。
私は、少女に、父親が連れ去られた時の状況、兄が内戦にかかわる前の仕事、母親と叔母の健康状態などを取材した。
取材の最後に、少女は、いつ終わるのかと尋ねてきた。
最初はこの取材のことかと思ったが、すぐに、今の内戦のことだと気がついた。
私には答えることができなかった。
それは、取材が終われば帰ってしまう私への非難なのか。
わからないと答えた後、彼女の左目の横の傷跡を見つめた。
翌日、朝早くに、彼女の暮らす建物は爆破された。
その音を、私は用意された部屋のベッドで、暖かいとは言えないが、決して寒くはない毛布にくるまって聞いた気がした。

でも、おだやかな顔をしていますよ。
霊媒師は話す。
彼に、スマートホンの写真を見せた。
打ち合わせの際にすぐにスタッフに見せられるように、現地の写真の一部を転送している。
左目の横に傷跡のある少女の写真。
そこにあるのは、おだやかとは言いがたい、警戒と怯えと恐怖と、世界にはその三つしかないという表情だ。
原稿につける写真としては、悪くない。
霊媒師はうなづいた。
しかし、今は別人のようにおだやかですよ。
彼は、私の目を見つめた。
除霊しますか。
まるで、契約の如何を尋ねるように。
私も彼の目を見つめた。
いや、もう少しこのままで。

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