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(その4)知性改善論(知的認識と純粋認識について)

 我々の認識の内には明らかに「教えられることなく認識できている」認識がある。例えば、「物体の存在」や「自分の認識」や「人間を同種と考えることで彼らと自分の間には普遍性があるという認識」、これらは絶対教えることができないが我々は認識できている。(ちなみに三つ目についてなのだが、実際我々はいちいち他人がどうこうなどいうことは教わらないし、のみならず仮に教えたとしても、または経験したとしてもそれは再確認のことでしかなく、というのもおおよそ人間が理解しうるのは下地的認識によるからでそして、普遍性とは同じであるという概念がなくてはいけなく、それは教えられなく、そしてその概念とは下地的認識によって認識されるのである)それはなぜと言うに、それらは純粋認識、すなわち「まず最初の認識」であるからで、つまりは、人間は絶対的にあるものを認識(理解)するためには「その以前のものを理解しなくてはいけない」のだがしかし、当然始点がないなんてことはなく、そしてその「始点こそが純粋認識」なのであって、それは始点であることからそれ以前は存在しないがためにそれを理解することは人間には永遠にできないからである。理解とは段階を踏んでこそなのである。まあ、純粋認識とは「直感」のことでしかない。
 さてでは、これに相反する知的認識とは何だろうか。すなわちそれはまさしく、「その直感から始めて人間が永久的に行う全ての認識」、それらすべてが知的認識である。(まあしかし補足としてこれについて詳しく言うと、これは全てが全てただ連鎖しているのでなく、一つの純粋認識から派生して行って、そしていつかは他の異なるように思える純粋認識によって枝分かれするのであってつまりは、純粋認識を繰り返して繰り返して、またその度に知的認識へと移行していく、という過程を人間は辿るのである)だから、知性は経験によって習熟するように思えるのである。というのも、より多くの材料を得ると当然より多くを検討できるようになるからである。まあつまり知性の改善(向上)の一つとはまさしく、「経験」なのである。(多くの事実は多くの知的認識の助けをするものである)

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