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(その1)知性改善論(知性の認識について)

 例えば、考えるということこそが理性であった場合、なぜそうであるのか。また、考えるということの範囲はどのようか。感覚や認識とを人は、どのように峻別しているのか。私はまずこれを究明した後に知性の改善に対する論考をしたいと思う。
 知性とは何か。持論ではそれは、判断全般のことであるとしてる。例えば、良し悪しや当否は知性の為せることではないだろうか。理論を組み立てる際も人間は多くを承認することが必要で、そのためには判断力が必要であるのだが、それこそ知性なのではないだろうか。そして得策が考えつくのも判断力という知性が為しているのではないだろうか。決定する力こそが知性なのではないだろうか。
 では、その判断力とは何か。判断とは何のことなのか。まあ、そのためにはまずアプリオリと、アポステリオリについて論究しなくてはいけない。
 我々に与えられた知力はいかばかりか。多分我々が与えられたのは本能的認識のみなのではないだろうか。すなわち、人間認識の純粋な性質のみを人間は与えられたのではないだろうか。そしてだから、アポステリオリ的知性とはつまり、人間的認識上での事実の確認(確認のためには比較や考察や仮説や決めつけなどを要する)のことなのではないだろうか。すなわち、本能的認識を理解して、その上で事実を認識するということ、そのことこそが判断なのではないだろうか。(まあ、天賦的認識及び本能認識によって経験すると人間は、その認識が確認できたとしてその経験を事実と見なすのであるから、アポステリオリ的認識とは経験を含むのである)すなわち、知性とは人間本来の生活上で当たり前かのように常用されているそれのことなのである。(人は常に判断をしているということは疑いようがない)
 だから知性とは特別誰かに与えられたなどということはない。(もっともそう思っている人がどれほどいるのか私自身知らないが)人間は皆平等に天から知性を与えられ、そして常用している。だから総説として、知性を認識するに、それは完全にアプリオリ的それであることから、実のところ認識するのは難しいのだが、(それは物事の本質のことであり、我々は実際付帯性しか認識できない)しかし実際使用しているのだから少なくとも「自分の所有物」であるのだから、つまり「有しているという認識」は可能であり、だからつまりは「知性の使用を認めることで知性は認識できる」のである。そして感覚や認識というのは、知性の使用を可能にしているものなのでないかと、私は推察している。

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