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彼も彼女も「彼」へと統合したい

 以前からすこし思っていること。性別が日常会話のなかで一話題となることへの違和感。

 まず数年前に実家に帰ってきたときの話。そのとき再確認したのは、女性は男性また家庭に仕える精神がジェンダー規範として現在も根付いているということ。規範が内面化することによって、仕えることに喜びを感ずる側面があるらしいのは、彼らがそうした裏方としてだけ社会的に「しつけ」られて来たためだろうと思う。
 強制によって、選択と意思決定の機会を奪われた単一的生き方は忌まわしい。奪われた主体性を生かされる者は、あるいは解離しあるいは抑うつしながら、社会に適応したり不適応したりするのだろう。
 性別に代表される自ら選択したのでない自己の属性とされるものによって規範的に位置づけられ、その規範に基いて仕えることによってようやく自己が承認を得られるパーソナリティへと整形されることは、それが自己というより他者の(主体たる男性の)承認によって自己の輪郭が初めて確かめられている状況であり、主体は奪われている。仕える男性を喪失することによって、あるいは仕えることを拒絶されることによって、彼は自己を承認する術を失うのではないか。そうであってはいけない。

 世情柄、地方と呼ばれるところ——とくに人流(流出は多いが)も乏しい地域において、人口減少に由来する社会不安は誰もが感じているように体感する。それが人口流入増加への志向になればまだよいが、人口流出をせき止めるため当人の意思決定権を奪ってまでひき止めようとする動きに転じる傾向がある。危機感によるものといえばそうかもしれない、余裕がないともいえるかもしれない。それが地元への嫌悪感となり、郷土への愛着よりは憎悪を育てることにもなってしまう。
 閉鎖性の高い田舎では、価値は刷新されにくい。価値とは他者との遭遇によって転換する事件的なものである。時代が要請する価値観をどれだけ講演会によって普及しようとしても、当地の価値観を守るように再解釈されてしまう。これでは他者との遭遇にならない。他者は理解できない無限なのだし、解釈可能なやりとりではなく解釈できない衝突がこそ価値を次へと変容させる。それだけが変容させ得る。それはこちらの解釈、換言すると世界を、根底から再構築する行為である。解釈された世界にはさまざまな権威が存在し、それらは影に身を隠して解釈者自身に見出すことは難しい。共有された権威によって、私たちは前提なしに「あってはならない」ことを発言できてしまう。しかし、それは権威による無言の命令であって前提がないのではない、権威の不可視性ゆえに前提へと言及できない仕組みがあるのだ。これは人間的につくられた構造ではなく、認識論上ひとが負わざるをえない構造だ。このどこまでも人を内包し絡みつこうとする構造というものの粘っこさは私をいらつかせる。なぜイラつくのかという問いがあり、応ずれば自分の意思決定を他人によって奪われ続けてきたという私の認識によってだろう。——いや、それは私が自分の意思決定を強行できない弱さによってもたらされたものだ、という言い方もできるに違いない。しかしその強行できるだけの強さを、どこで獲得したらよかったのか。多くは思春期の反抗によってか。そのとき私は他人の導くレールに収まることばかりを考えて、反抗がうまくできなかった。なかったわけではない、内面に懐いたそれらへの憎悪を表に出すことによって、構築された役割期待から逸脱することに強い恐れがあったのだ。そのためなのだろう、自分の本心をひとに語ろうとすると喉が詰まり涙があふれかけ、いつも語るのを短く終えることになる。

 話をすこしもどす。価値の体系を再構築することが自己内世界を支配する権威を自己から追放することであるが、この追放——それ以前に権威を直視するという行為から苦痛が伴う。それはこれまでの価値体系を崩壊させる勢力であり、よって世界はもう一度立て直さなくてはいけない状況へと堕ちようとする行為であるから。権威はすでに自らの権威を肯定する構造を守るために守旧的に立て直しを図ってこちらに向かって来るということで、だから拒絶のしぐさが自己に生じるのは必然的だが、そこで減速せずむしろ加速して突破するように仕向ける。抵抗を受け入れたまま加速する。この辺がアナキズムにシンパシーを懐く思考様式になっている。とはいっても私はこれをやりきれなかった観がつよく、これまでの価値転換の過程を辿ることもできなくなっている。

 そうした自己自身による突破が難しいなら(難しいに決まっている。そういうものだから)、他者という異物を自分にぶつけていくしかない。それは田舎でいえば人流、特に「よそ者」の流入を促すことだ。郷に入っても郷に従わないよそ者(在地の価値構造が有する権威に無縁でいられる存在)によって、在郷者のうち抑圧されてきた人々が価値構造の呪いから解放され当該権威を適切に軽くして抵抗感を低減することが可能になる。

 この価値のなかには今回の主題としたかった男女の不均等も含まれる。私はセックスもジェンダーも男ではあるが、フェミニズムにも強くシンパシーを懐いている。私にとって「女性」とは「声を奪われ続けている存在」と言い換えることができる。それはもはや性という枠で括られるものではなく、社会の規範によって黙るよう強要されてきた者すべてへと波及している。よってフェミニズムとは「声が限定的に・・・・与えている社会構造を、声を奪われてきた者のほうから眼差し、告発/糾弾する動きまたそのための既存構造を闡明する動き」であって、ゆえに私もまたこの範疇でフェミニストであり得ると考えている。
 性に関わることでいえば、私は姉と妹のあいだに位置する長男として生まれている。これは自ら選んだものではなく、またそれを承認してもいない。が、周囲はそうではなく、やはり長男に対しては配膳作業からも遠ざけられ、食卓に座って待つという役割があるように思う。私はそのように台所から遠ざけられ、長男的にものを知らない存在として可愛がられてきた。経験する機会を剥奪されてきたのであって、これはフェミニズムによって接近できる問題だと思っている。

 収拾がつかない。タイトルの話をしよう。
 代名詞として男女の別によって「彼」と「彼女」と呼びかえることに違和感が生じてきている。呼称の歴史を辿る必要はあるが、この呼び分けは人間から女性を切り離す操作ではと思ったりする。それを措いておいても、別段性別がまったく関係しないはずの話題のなかでも、性を意識せざるを得ない状況をつくっているのではないか。
 そこで私は「彼」も「彼女」もともに<彼>と呼びたいと思っている。しかし、ここで「彼」呼びがこれまで担ってきた男性性をどこまで濯ぎ落とせるのかという気もしている。「彼」に本来は性の意識は付随していなかったと思うし、そうであってほしいのだが、すでに慣習的に男性への代名詞という印象が強いため、むしろ「彼」と呼称することによって性別意識が強調されることにもなるんじゃないか、そう思ったりする。それは同志をみつけて運動化していくことで解消されていくものなのかもしれないが。

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