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死にたい気持ち

 自殺の報道を聞くたびに、自分のあの頃を思い出す。忘れたように毎日を普通に過ごしていても、きっと死ぬまで忘れられないのだと思う。
 あの頃は可哀想と思われるのが嫌だった。パニック障害とわかって電車に乗れなくなってから「可哀想」と言われることが多くなった。聞くたびに私は憐れまれるくらい悲しい生き物になってしまったのだと実感した。当たり前のことが当たり前にできないことは「可哀想」なのだと。私のために言ってくれた言葉かもしれなかったけれど、本当に辛い言葉だった。
 でも今はあの頃の自分を「可哀想」だったと思う。あんなにもがいて苦しくてそれでも生きたくてやっぱり駄目で死にたくなって、毎日毎日その繰り返しを3年間。
 気が遠くなる日々だった。躁と鬱の狭間で戦っていたけれどちっとも終わりなんか見えないから、死んで終わりにしたいと思って夜が来るたびに遺書を何度も何度も書いた。
 「死ねることが幸せだから、どうか悲しまないで欲しい。」
 家族宛に書いた言葉だけれどこんなにも残酷な言葉はなかったなと思う。そんなことも判断できないほど、心は壊れてしまっていた。
 そんな壊れてどうしようもなくなってしまった心を無理につなげようとしたあの日に、私はベランダから飛び降りた。
 今もその時の気持ちが波のように襲って来る。あの落ちていく重力を思い出し、胃がブワッと浮いたような感覚になる。忘れてしまいたい気持ちと、忘れては駄目なのだと戒めるように度々思い出すこともある。
 命は大切だと、小学生の頃から教えられる。痛いことは怖い。そんな当たり前の感覚が次第に麻痺してきて「死にたい」に向かってしまう。決して命を粗末にしているわけじゃない。鬱の時に「死にたい」と思ったことが躁の時にできそうな気がしてしまう。当たり前のことができなくなった自分に唯一できることが、死ぬことのように感じて、それが暗闇を照らす光に思えてしまったんだ。
 だからこそ誰かが自分で命を絶ったという事実が本当に悲しい。残された家族を思うと悲しさでは表せられないくらい、胸が苦しくなる。
 でも悲しむことの前に「何が原因で」「何があったのか」と憶測ばかり流れるこの世の中に一番嫌気が差して来る。興味本位が遺された家族を苦しめている。何より亡くなった本人を侮辱しているような気持ちになって本当に腹立たしく思う。

それでも自殺志願者を救いたいと言えるほど、私は強くない。
けれどやっぱり辛い人がいれば寄り添いたいなと思う。
何も上手いことは言えないかもしれない。
それでもよかったら話して欲しい。
生きている限り、できることはあるはず。
そうおもって自殺未遂の日から生きてきた。
よかったら私と一緒にできることを探しに行きませんか。
いつでもそばに、ここにいます。

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