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先日参加してきた勉強会で、自分が行う「シゴト」について改めて考えてみようと思った。

そもそも「シゴト」とは何かっていうことをあんまり分かってなくて、参考になるのは学校の先生とか両親とか、知り合いのお兄さんとか身近な大人を見てなんとなく捉えるくらいだった。

学校がある日よりも休みの日の方が楽しそうというのは大人も自分も変わらないのかなぁとかそれくらいだった。

高校を卒業して実際に社会に出ると、今まで出会ってきた大人たちの言うことがよくわかるようになり「なるほどこれは死にたくなる」と、自分の事なのにどこか他人事で分析していたのを覚えている。

その中でも楽しそうに「シゴト」をしている人もいることがわかって、一体何が違うのかと不思議でならなかった。

様々な要因があるだろうが楽しくない理由のその多くは「仕方なくやる事」だったのかなと僕は思う。
当時は自分が何に向いてるのか、どうしてここまで拗らせたのかも一切わからなかったので、ただただ「しんどい」と言うことだけが残っていた。

縁があって「整体」という世界に入ったことで「シゴト」と言うものの意味が少しずつ変わっていった。

最初は何が何だか全くわかんなかった。
「感覚の片鱗」はあったものの、当時はそれを優先するほどの勇気と余裕がなかった。マニュアル的なやり方が合わず「「思考」錯誤的」な学び方はどんどん心身が分離していくようななんとも言えない辛さがあった。

今まで「もらう」ことばかりで自分から何かするという概念がそもそもなかった。「与えてもらう」のみで構成された心身であったため、全く悪気なく「知識や技術は与えてもらうもの」だと信じて疑わなかった、疑問にすら思わなかった。

おぼろげに「俺のやりたいことって与えてもらうのは無理では?」となった。
そんな感じで「外」に出るようになり、色々な考え方に触れるようになった。
「自分が理想とするものは今の世の中にはないから、創るしかないんだ」と半分絶望、半分昂揚してドキドキしながら試行錯誤していった。

最初は、人の役に立つかどうでもよくて「俺は俺のやりたいことのために今一生懸命生きている」という感覚が嬉しくて楽しかった。

とにかく試行錯誤することが楽しくて、自分の心身を用いてそれが現象として現れたときに、なんとも言えない幸福感に包まれていった。
非現実と現実を「俺」という橋を介して生まれるアイデアや概念にとにかく震えるくらい興奮した。

他の誰でもない、竹内晶貴自身が、自らの感性を行動に移したその結果が、
施術という形に表現できたこの事実が、何よりも誇らしく、そして嬉しかった。

自分には何もなくて、できないという強い思い込みがあったから、それを自らの意思と力で乗り越えられたことが何よりも嬉しかったのだ。

とはいえ「自分のためだけに磨く」というのに限界が来ることも学んだ。
「自身の過去の傷」を隠すためだけに磨く技術はどこか息苦しさを与えてしまっていた。

トラウマの箱がもういっぱいだったんだ。
存在価値なんてあるわけないじゃんって笑って言えてしまうくらいに。
価値があると、傷ついた時に耐えられなくて死んでしまうから。
だから最初からないものにしてれば、最小限に済むと本気で信じてた。

そんなことに向き合えるようになって「自分のための器」が満たされているのを感じ、自然と外に溢れた泉が「人のためって?」という意識を産んだ。

おかげさまで多くの人に知ってもらえるようになってきた。
「この施術は言語化できないが、とにかくすごいというのはわかる」と言ってもらえる。

僕はこれが一番嬉しい。
なぜなら既存のものであるなら、既存の表現で完結できてしまうからだ。
どうやって表現したらいいのかわからないというのは今までの経験や知識の外にある経験だからだと思うからだ。

だからこそ「あなた」の言葉で伝えてもらうことが僕は何よりも嬉しい。
これこそが「純度」でありあなたという個人を一番知れる素敵な瞬間であると確信している。
あなたという命の輝きであり、これが心身を整えることで自分らしく生きていけるという確信にも繋がっている。

だからサイキック整体は面白いのだ、熱いのだ、優しいのだ。

今の僕ができる「シゴト」の好きなところをまとめてきたが、ではサイキック整体がサイキック整体たらしめるには何が必要なのか?

「僕1人では成立しない」というところが原点にして頂点というか、最も根源的で基本的な話になる。

そもそも「心身の不調」をお金というエネルギーに変えて、報酬としていただいている。

前提として「何かしらの不調」がなければ僕はシゴトとして成立しないわけだ。

となると「食っていく」ためには相応の「不調を抱える人」を求めるわけで、果たしてこれが世界の流れとして正しいのかどうかと思うわけだ。
悩んだ、ここはマジで。なんなら今でも気になることがある。

俺は目の前の人に対して、一体どういう姿勢で施術を行なっているのかと。

色々ぐるぐる回った上での現時点での結論は「そういう流れであり役割だった」ということだ。

世界の情勢、あらゆる役目を与えられた人たち、日本の、世界の立て直しとして存在している様々な存在。

「この世界」というレイヤーにおいて、そういう役割を担う人がたくさん必要なタイミングだったというだけ、なのかなって思ってる。

戦国時代は戦国なりの、縄文は縄文、弥生は弥生と、各時代や背景、大きな枠組みとしての流れや順番などによってその時代に生きる人たちに適切な役割が与えられていると思う。

漫画でもよくある。
○○編とか一部とか。

今回は「世界立て直し編」なのだ。
やることがあるから生まれて生きてる。その役割をその時代に沿って面白おかしく全うするぜっていうだけなのかもしれない

今生きている自分の顕在的な意識では、きっと認知できない大きな流れが存在している。

こうやって考えて、やっぱり出てくるのは彼のことだ。
本当に、重要な気づきの時にこそ出てくる気がしている。
死人に口無しなんて言ったのは誰だ。
まぁ、俺でなきゃ見逃しちゃうけどね。

渦中はとても辛かったと思う。
表も裏も大変でそんなことを意識している余裕もなかったことだろう。

でもより俯瞰して、遠く広い視点でこの世界という枠を観察したときに、当時の苦しみや辛さ、消えてしまいたいと思った感覚や試してみようと思った好奇心でさえも全て「予定通り」だとしたら、この世界は一体、どれほどの視座を僕らに求めているのだろう。

「テーブルクロス引き」だよ。
俺はテーブルクロス、グラスは現象や世界、机が仕組みや構造だ。
勢いよく引かれたテーブルクロスは世界や仕組みを一歩後ろから観察できる。

この視座を俺は大切にしているんだ。
まるで全てが玩具箱の中での物語のように見えてくるだろ?
良いか悪いかぁじゃあないのさ。

面白いと思わないか?
こんな風に世界を捉えられたら、きっと目に映るもの全てがメッセージになるぜ?

世界は俺を中心に回っている!なんて偉そうなことは言わないけどさ、中心を認識する工夫や柔軟性はあってもいいと思うんだよ。
まぁ一番は、そんな風に考えられたら面白いよなってだけなんだけど。

そう、これまでのnoteも施術も何もかも、他ならぬ俺自身が楽しいからやっていたことだ。

深く考えるのは楽しい。
フィクションとノンフィクションを繋げて新たな「1」を生み出すことは最高にクールだ。
思いついたことを好奇心のままに実践して、それが人の役に立つなんてもう最高だろ?

そうさ、根っこにはいつも「遊び」があったんだ。

誰よりも何よりも俺は俺を遊び尽くす天才になりたいんだ。
どう考えれば喜ぶだろう、どうすればその熱に火がつくのだろう。
どう伝えればこの想いが届くのだろう。

俺に届けばきっと君にも届く。
いつだって最高のファンは俺自身であるのだから。

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