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落差ジャンキー 〜存在価値と施術〜

ここ数日で、自分にとって大きな気づきというか「まだ解消されてないんだ」と思うような情動があった。

そこへの自覚と、施術によってまとめたいことがあるので書いていこうと思う。

施術を行う上で、自分は一体何をやっているのだろうと意識した時に、結構ボヤッとしているなと思った。

というのも「整体」という文字に含まれる意味や一般的な意図から外れたことをやっているので、定期的に自分のやっていることを再定義しないとあらぬ方向にいってしまうのではと思うからだ。

自身の活動に適切な器を用意することができればまた変わるのだろうが未だ見つかっていない。
もはや「術式」という名称にして「能力」の紹介みたいな感じにした方がいいのかとすら思う。

それでいうと候補があって、呪術廻戦の真人の「無為転変」をとりあえず採用しようと思う。天与呪縛による身体への影響をこの術式によって相殺したことでメカ丸は普通の生活を送れる身体になった。
何事も「名前」というものの持つ効果は凄まじいが、それは自分のやっていることも同じだ。

まるで必殺技や変身時の掛け声のように、自分の能力を使用する合図として、自身の施術の術式の名前をつけるのは至極当然の作業であると思う。

話がそれたが本題だ。

現在「リクドウ」という漫画にハマっている。
大変な子供時代を過ごした主人公がボクシングに出会って生きていくという話だ。

今回の気づきと施術がこのリクドウとかなり密接にリンクしていることにさっき気づいた。

まずは作中にあるセリフの引用から始める

兵働楓という天才と戦うことになった主人公。

彼の天性から繰り出される拳に防戦一方になるが、一筋の光を見出すように兵働の「歪さ」を拳から感じ取っていた。

「楓はそんな立派なボクサーじゃねえよ、小せえ頃タダで英才教育を施してやったんだが、あのガキ本当は殴られるの怖えくせにそれを歪な形で克服しちまったんだよ。」

「パンチを楽しむボクサーなんて酔っぱらってんのと同じだ」

「身体と脳を繋ぐ糸、それをぶった斬られりゃ嫌でも落ちる。
簡単に、平等に。」

「鍛えようのねぇ糸を守れるのは技術と体格に生まれ持ったタフネス。
撃たれ弱ぇお前は特に一瞬でも気が抜けねえぞ。」

「どうにもなんねぇことはある」

施術をやる上で大切にしていることはその時点における「納得」を症状を通して実現していくことだ。

そのためには様々な角度から相手を「理解する」という姿勢が大切だと思っている。自身の感性と経験を総動員して、蛇口を捻るように必要な言葉や施術を行う。そうやって徹底的に磨いてきた。

ある意味狂気的に、それこそ異常なほどに。
天よりも高いプライドと地よりも深い探究心があるという自負を持って今日まで来た。

実はこれが自身の「なんで理解してくれないんだ」「理解してほしい」という過去の傷ついた経験が軸になっていることに気が付かなかった。

いや、気づいていて、これらはとっくに解消されていると思った。
でも違った「まだ底があったんだ」

自身の存在価値やある意味生殺与奪に関わる領域だ。
俺が俺としていられるのはこの異常なまでの「理解されない、されたい」ことへの執着がこの質を生んでいた可能性がある。

施術を一回行って、それで本人が納得できるならそれ以降はもういいじゃないか。わざわざ2回目3回目って案内しなくても、別にそれで・・

1回である程度納得してもらえるなら2回目は別に必要ないんじゃないかと本気で思ってた。

リピートという形でやるのにどうしても自分の中で納得がいかなくてかなり悩んだ。

それは施術のコンセプトと、そこへの思いこみ、過去の情動などが絡み合っていたようだった。

なんのための「こだわり」や「プライド」だったんだ?

理解されないという「悲しみ」や「苦しみ」を「孤高」や「一匹狼」という形にして克服しようとしたんじゃないのか?

アイデンティティなんてものじゃない、これが否定されたら死ぬしかないというくらい実はそこまで余裕がなかったのかもしれないと思った。
施術を行うことで得られる喜びが、自分の存在価値という器を満たすエネルギーになっていた。より深いところで。

ここもすでに解消したと思った。でも違った、より深い、深奥に、源泉ともいえる「傷」があったんだ。

それだけ長かった。
「理解されない」ということがいかにキツイのか忘れていた。
そんなことは嘘かのように日々は当たり前に流れていく。

でも自分の内側では嵐や噴火のように、心が忙しなく移り変わっていく。
触れられる距離に人がいるのに、心だけがいつまでも遠い。

その場にいるのに居ない感覚。
合わせて笑うことしかできない自分。勇気を出して伝えても辿々しく、怯えながら行うコミュニケーション。伝わらなかった時のあの温度差。

これが友人ならいざ知らず、家族でさえこれなのだ。
お腹を痛めて、命を使って生んでくれた母親でさえも「理解」されることはなかった。

家族には恵まれた。何不自由なく生きてきた。だからこそ辛かった。
考える時間があることが拷問のようだった。理解されないということが肌でわかっている空間に、人のふりをしながら馴染んでいる時間。

俺は一体なんなんだと思った。
気にしすぎ、考えすぎだと言われることが罵倒されるよりキツイとは思わなかった。

自分の傷や苦しみ、ぶつけようのない怒りの底が見えなかった。

でもそんなの当然で、そこに自分で気づけるなら苦労しないし、気づけない見たくない知りたくないからこそ閉じ込めて拗らせるんだ。

ごくごくシンプルな話だったんだ。
直視するのしんどいから複雑にして、それっぽくパッケージ化する他に生きる術がなかったんだ。

とにかく安心したかった。理解されたかった。
「わかる〜」ってカラッと笑ってほしかったんだ。
生きていていいという実感が、手応えが、納得が欲しかったんだ。

複雑にするのは、自分にとっての真実が何であるか本当は知っているからじゃないのか。
でもそれはとてもきついことで、今の自分に受け止めるだけの器量と勇気がないことも知っていたんだ。

だから知識と技術と経験というものを総動員した。取り憑かれたかのように貪り食った、知識を情報を。心の穴を埋めるために、理論という鎧で武装して生きていた。

どれだけ摂取しても、身に纏っても、一向に心は晴れなかった。
でもわかってた、この方法じゃないって。

どうしようもなく悔しかった、やるせなかった。
どうにもならないと諦めるしかないんだけど、どうしても諦めたくなかった。
だから必死に足掻いた。なんとかしようともがいた。

今すぐじゃないとダメなんてことはないんだけど、今すぐ答えを出さないと許せなかった。認めたくなかった。
これだけ真剣に、真摯に誠実にやってもなお届かない領域があることをどうしても認められなかった。

じゃあいつになったら救われるんだと。

どうしようもないことがあるんだと自分に思い知らされた。
誰も悪くないことを知ってたからこそ、どこにもぶつけようのない怒りに酷いと叫んだ。

ぶつける先がないことを知っているということがどれだけきついのか。
振り上げる拳のその先がないことを知っていてどうやって振り上げるというんだ。

なんでこんな残酷なことをするんだとおかしくなりそうだった。

それでも、大丈夫だからこそ今こうしてこの苦しみを受け取っている。
逃げたいと思う、投げ出したいとも思う。楽になれるなら早く楽になりたいと。

それでもやっぱり嫌だった。逃げたくないし、諦めたくもない。
幸か不幸か、俺は俺に対して死ぬほど諦めが悪かったんだ。

ごちゃごちゃごちゃごちゃ考えるのは足掻いてる証拠だ。
なんとかしたいというエネルギーが彷徨い歩かせるんだ。
でもこの一見無意味とも思える遠回りが、今の自分にとって必須だったんだ。

ここは満足するまでやり抜くしかないんだと思う。
徹底的にやり抜かないと先に進めない。不器用でもいい。
そうしないと納得できない領域に俺は生きている。

「納得できるまでやり切れ」
そう落ちた瞬間に、衝動的とも言える怒りがフワッと消えていくような気がした。

だからこそ本人のその時点での、今まで経験したことなど総合して「納得」できる形を創造していくことを大切にしたいと思った。

「なおす」ではなく、整地とか認識とかそういう領域。

リピートについては
基本的には「維持」というレールで見るようにしようと思った。

初回受けた時の感動を2回目3回目超えられるのかという不安がすごく強い。
身体ってそういうものじゃないことを俺が一番知っているはずなのに怖かった。
否定されたり、思うような結果が出せないことが。

30年生きてきて初めて受けた時の感動と、そこから2週間後きて受けた感動だと「蓄積」の量と質が異なるから「落差」による爽快感というエネルギーは異なる。

人生に明確な目標や熱量があって、その間に施術でスッキリした部分を元により階段を登なら話は別だが。

1回目から2回目までの間に蓄積されたこととか、1回目では気づけなかった部分の深掘りとか。

1回目受けたことでほぐれた硬さを元に生活したおかげで2回目には1回目では気づけなかった領域に広がることがある。

大きな病気になってその部位を切ることになっても
僕は本人からの話を聞いてそこに納得があればそれでいいと思う。

基本的には全肯定。経てきた経験にケチつけるほど僕は偉くもなんともない。
し、否定するようなものでもない。

僕がやるのは、経験したことや今抱えていることの辻褄合わせを施術とインスピレーションを通して行うことだ。

結局気づかないところ、気づいて欲しいという意味で症状が出るのだから、そこと意識の部分で双方の合意というか納得が発露しないといつまで経ってもボタンはかけちがったままになる。

だから、納得した結果が「死」という形を取るなら僕はそれでもいいのかなとぼやっと考えている。

ここら辺は「施術」を通してどこまでその人に介入するかというとてもとてもナーバスな話になる。

だから時間をかけてゆっくり答えを見つけていこうと思う。
人は変化する生き物だ。だから僕の答えも変化する。

どこまでも風のように、自分らしく。
この傷を抱えて、竹内晶貴としてらしく生きていく。

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