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いじめ・不登校の当事者だったあの頃、私には何が必要だっただろう

思いを引き出すインタビュアー、鯨井啓子です。

2学期が始まるタイミングでもあり、twitterなどは不登校やいじめに関する情報が溢れています。その後の人生がなかなかに濃かったこともあり、すっかり記憶から抜け落ちていたのですが、私も小中学校の頃いじめ、不登校の当事者でした。

あの頃何があったのか、どう生き延びてきたのか、今大人になって、どんな介入が必要だったと感じるのか。

ちょうど読了した荻上チキさんの著書『イジメを生む教室』を踏まえて考えてみようと思います。

いじめ、不登校の記憶

私がはじめて学校に行けなくなったのは、小学1年生の2学期のことです。非常に自由であたたかな大人に囲まれた幼稚園から、「あれをしてはいけない」、「これをしてはいけない」というルールがたくさんある管理型の環境に移った中での緊張が夏休みで解け、2学期が始まる頃にはエネルギーが枯渇して学校に行けなくなってしまいました。

まわりにいた子たちが元気すぎたり、家庭での寂しさを紛らわすためにちょっかいを出してきたりということが重なったことも、私のキャパシティがはやくにいっぱいになってしまった原因のひとつだと考えています。このときはエネルギーが快復した3学期には、学校に通えるようになっていました。

2回目は小学校3,4年生の時。担任の先生の性格と自分の気質が合わなかったこと、クラスのいじめっ子に気に入られ、日々マウンティングをされていたこと(あとから「好きです」というお手紙をもらい、ほんと男心ってわからんな!!としみじみ思いました。)、そして、家族に病人が出たりして家庭内環境が殺伐としていったことなど、様々な出来事が同時に起こってしまったことが大きかったです。このときは長期的に学校に行けなくなったというよりも、3日とか4日とかの、長期の欠席をよくしていました。

3回目は中学1年生の頃。急に部活による先輩後輩関係が始まったり、高校受験に向けての生徒同士のマウンティング合戦が始まったりして、精神的についていけなくなったことが大きかったです。このときも、長期的に学校に行けなくなったというよりも、3日とか4日とかの、長期の欠席をよくしていました。

どう生き延びたか

学校内の居心地の悪さと並行して、我が家では幼少期から、父が夜帰宅するとだいたいお酒を飲んで大声を出すということを繰り返していました。だから、基本的に夜は安心して眠れない家でした。

ただでさえ家でのストレスが大きいのに、学校でもストレスが多くかかれば、体力を使い果たし学校に行けなくなる。私の不登校の仕組みは非常にシンプルでした。

今考えると、身体が悲鳴を上げ、朝ちゃんと具合が悪くなってくれたこと。そのおかげで日中、学校と父からのストレスを受けず、のんびりとした時間を持てたことは、今考えると私自身が人としての尊厳を失わないで生きるために身体が行ってくれた、自己防衛策だったのだと思います。

どんな介入が必要だったのか

不登校だったあのころ、私は自分自身の不登校にこんな理由があったということに気が付いていませんでした。毎晩父が大きな声を出して眠れないという状況が異常事態であった。そこに私自身はたくさん傷ついたということにちゃんと気付けて悲しめたのは、30歳を超えてからのことです。

そしてそれは、専業主婦で私の面倒を一手に引き受けていた母も同じことでした。だから、ぼーっと窓の外を眺めていたりすると「体調が悪くないなら学校に行きなさい」と言われたこともありました。

今振り返って思うのは、私にはあのころ、何も言わずにただ心身を休められる、静かな環境が必要だったと思っています。理由が自覚できていないのに、理由を聞いてもしょうがないんです。分析には少なからずエネルギーがいる。そのエネルギーすら枯渇してしまっている場合が、学校や家庭で疲弊してしまったこどもには往々にしてありうるのだと思います。

ゆったりと好きな音楽でも聴いて、本でも読んで、おいしいもの食べて、ゆったりと眠れたらいい。そこですこしでも回復できたら、原因を探るエネルギーが生まれたり、適切な人に助けを求めたり、自ら解決策を学ぶことができるかもしれない。そのためにも、何にもまして必要なのは休養の時間です。

そしてもうひとつ教えてもらえていたらとってもありがたかったなと思うのは、自己肯定感の持ち方です。みんなが通っている学校に行けないというだけで、私は本当に強く自分のことを責めていました。けれど、どんなに責めたところで私は私を生きるしかない。改善できるところはまわりの人たちの力を借りて改善していけばいい。でも、存在そのものを否定していてはどんどんつらさが増していくだけです。

私が自己肯定感をしっかりと持てるようになったのも30代になってから。これがこどものころからどんなこどもにも備わっていたら、どんなにか理不尽な境遇からも守られるのではないかとも思います。そんな考え方を小さいころから教わることができていたら。ということはとても強く思うところです。

私は幸いにも何とか出席日数が足りて希望する高校に入学することができ、大学にも進学し、その後も様々な面でこの経験による後遺症が影響を及ぼしましたが、なんとか学歴という浮き輪のおかげで社会人として生きています。

私にはこどもがいないから関係ない。ではなく、なにかできることをしていきたい。そのために、少しでも私の経験が役に立てばと思い、発信をすることにしました。これからもできることがあれば、体力のある限りやっていきたいと思います。


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