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週間レビュー(2023-4-23)_音楽は分かり合えない人間たちを繋げる希望だという。建築も同じなんじゃないだろうか

春と梅雨の間、若々しくも重い空気が時々流れ込んでくるような季節で、気がつくと4月も後半戦。12月から進めてきた大きめの仕事がようやく片付いた。

プロジェクトA

とても身をすり減らしたけれど自分の能力以上のことに携わらせていただき、とても学びの深い実践の時間だった。全く持ってスキルとして足りないものも、意外と戦えるのだな…という部分もこういう機会に相対化されることで自己理解が生まれる。特に多くの人が関わるプロジェクトの場合、瞬発力(=これがあったら良さそう、こういうことを言いたそう…という緩い解像度を瞬発的に形に起こすこと)や人の意見の真髄を捉えること(=この人はこういうことを言いたそうだ、こういうデザインをしたそうだ、それはなぜだ?)は少ない情報量から形を具現化する能力としてとても重要だなとも思った。「私の意見やアイデア」を押し通すようなプレゼンや提案ばかりやってきたので、今回のような自分がデザイナーではなくチームやクライアントにとことん寄り添うようなやり方の重要性を理解した。
nendoや大手の建築設計事務所はこのような動き方や言語変換がとても上手なのだろうな。このレベルの動き方が求められる仕事や建築設計の動き方をしていきたい。

安藤忠雄講演会

週の中盤では、研究室の主催していた安藤忠雄講演会へ行く。
安藤さんとは高校1年の時に一回お話を聞いたきりで7-8年ぶりだった。当時はオリンピック前で、国立競技場問題のちょうど前だったのだろうか?かなり大病をされて復活された時だったような記憶がある(定かではないが)

今回は青りんごを導入にされつつ、面白く生きること、面白く長生きすることについて語られていた。彼の語りはすでに自分でも聞き取りづらいのだけど、やはり伝えたいことは言葉のリズムからとても伝わってくるのである。

対面でお話を聞き、近くでも見るとやはり安藤忠雄は理論の人ではない、その人生が建築表現にそのまま転写されてること、建築という構築物以上に安藤忠雄という存在自体が建築的な存在であるということを身をもってわかる。彼は仕切りにユーモラスに学歴主義批判をしていた。「早稲田で座りながら勉強するくらいなら世界に行け、体を使いなさい」「自分の力と学校の力は全くもって別だ、依存するもんじゃない」「早稲田とか頭の良い人はアイデアがない、オモロない」と。安藤忠雄の言うオモロないというのはどういうことか。こうやって大隈講堂に集まっている自分達はオモロないってことなのだろうかと講演の後の電車でうんうんと考えていた。

たとえば、構造家の木村俊彦氏によるテキストの中の「連結超高層は『安普請で、もっとも金のかからない建築』とは違う」「安藤忠雄氏が『そんなことをしたらオモロない』といった一言が効いて、連結案が息を吹き返したと聞いている」などである。

超高層の外へ出よ
https://shinkenchiku.online/column/7298/

また同時に「面白く長生きする、自由と勇気と好奇心で」とも言う。人生100年、面白く生きないとしょうがないと、面白くないなら死んだ方がマシだと言う。(東京湾に沈めてやろうと言っていた笑)

きっとクリエイターやデザイナーなどならなんとなく理解できる死生観である。ずっと年老いてもなお好奇心の目を持って物事にあたり、これをやってやったら面白いじゃないか、企ててやろう、一泡吹かせてやろうと言う気概なのだろう。そのために知恵を働かせて、ここでなら行ける、オモろい!という一発を食らわせてやろう!そんな気概、その気概を持たないで大学や制度にもたれかかっている君たちは「生きてないも同然だぞ」と言う真正面から煽りをする。そのまま建築空間やデザインアプローチに反映されてるなと思う。いつまでもロックで、最高のデザインをする建築家だ、彼以上に、面白いこと心躍る建築を一心不乱にいつでもやって行かねばいけない。

Genius Buntsu Loci

GWに展示会への出展に誘われて、その展示ボードの作成もする。
今回は実作ではなく、思考のプロセスやアイデアボードでも良いらしく、ChatGPTのAPIを用いた「土地の精霊を呼び起こす情報インターフェイス」についての展示をすることに。

今回これを作ろうと思った背景として最も大きいのは人や人間の頭脳だけが参画する建築計画にその複雑性に対して回答するCPU的な臨界点があるのではないかと思ったからである。

ゲニウス・ロキ的な土地の精霊や土地の生物環境、空間を成立させる部分部材、空間の温度などあらゆるものを統合して建築や土地毎に独自の言語モデルを持ち会話が可能になる時、私たちは人を中心とした視点ではなく生物的視点や精霊的視点を考慮した上で建築を行うことができる。建築家やデザイナーは情報になる前の情報を観察眼的に読み解く能力を持ち、それを考慮した上で複雑なものを処理して空間を生み出す。

しかし精霊が生まれる時、複雑性を保ちつつも人間的言語インターフェースに変換され会話することで発見が可能になる、つまり精霊と会話が可能になる。市民参加的はまた次のフェーズとして柳田國男らが主張していたような死者の民主主義のような形態となるだろう。人間の主観的意思ではなくあらゆる生物と共に共生するにはあらたな自然や人工的産物との東洋的インターフェースデザインが重要だと考えている。

未だ駆動する再開発、機能主義を越えられなかったメタボリズム

そして週末には神宮外苑の再開発デモへ。もともと署名をしていたがやはり現地に来ると色々な感情やなぜ?と言う気持ちが込み上がる。そして色々な情報アンテナから入ることと照らし合わせると、このデモも偏っていることもわかる…しかし木々を高層ビルのために切ると言うのはなんともなしに嘆かわしく、このようなクリティビティのない選択肢しか提示できないシステム的な開発はやはり気持ちが良くないと思う。
自分の無力感をとても感じる。そしてこのような無意味な開発に建築設計者として加担してしまうかもしれないという恐怖がある。きっと神宮外苑の開発資料を作ったりしているのはあまり歳の変わらない若手だろう。

このような立体的で構造的な問題に対して僕らはどのように立ち向かった良いのだろうか。国立競技場の問題は何か片付いたように思えて、実は何も片付いていない、放置状態なのではないかと思ったり、地方などの安全なフィールドに逃げずにどのように都市のこれからを考え、機能主義に対峙することができるのだろうかと。近代主義に対して何もアンサーを返すことのできない建築は創造者や構築者としての地位を明確に追われ始めている。か・かた・かたちを精読して見えてきたことは建築が「機能主義を越えられなかった」ことにある。これは人間観や物質観に関わる根源的な認識変容を社会に作ることができなかった。

ーしかし、左翼的?なブラックボックスに対しての権力や構造批判(富裕層が・一部の人たちが富を独占し…)などは自分はあまりポジティブではない。その背後にある「再開発」と言う概念性や、なぜこのようなアイデアとしても面白みのない行為をしなければならないのかと言う人間が作るシステムや状況に興味があるし、ここを紐解かねば反発的でアナキズムな創造はできても、異なるものを繋げ、理解を作る場所にはならないと思う。何しろ建築家がポリティカルな側面にバイアスがかかるとこぼれ落としてしまうものが生まれるのは必然である。

今回のデモでGotchも言っていたが、音楽は分かり合えない人間たちを繋げる希望だという。僕は建築や場所、空間も同じだと思う。分かり合えずとも、その場所や空間に感動し、同じ想いを作ることができる。これこそ建築の力なんだと思う。この神宮外苑については、建築的都市的観点からちゃんと考えたいと思う。

この辺りも…クリティカルグリーニズムやリスペクトの範囲の概念として確かになと思う。もうちょっと色々な意見を見て考えたいと思う。

世田谷区選挙

世田谷区選挙にも行った。にしても選挙という民主主義的システムは限界性は近いなと思う。50%も満たない投票率、興味を持てない政治システム、投票のデザインなどなど、公共的な儀式となり実質的な効果や機能が伝統により置き去りになった遺産のような仕組みだ。なぜこのやり方で続くのだろうかと思う。そして建築が争点に当たっていたりと、やはり建築と政治的なもの、公共的なものというものをどう扱えばいいのかちゃんと考えたいと思った。もっと若手が区議会や区政、そして議論に参画できるようになるべきだと思うし、また汚い手法を使ってでも勝利するみたいなしょうもないやり方はもうやめたら良いのに…と思う…

24

24歳になって…この歳をどのように生きていこうかやはりまだ言語にすることができていないのだけど、今あるものをとりあえずは必死にやってい期待。作りたいものも全力で作って、表現したいものは全部やること。特に研究は自分のメインの活動になると思う。これからも自分の基礎的バイタリティを信じたい。

来週も頑張ろう。


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