Cがやりたいと思ってしまうのは何故か

Youtuber、C向けのサービスをやる人、ライブをするミュージシャン、今の時代色んな人がCをやりたいと思っていると思う。金を儲けることが第一目的にくるのであればBのほうが堅いとは思う。しかし、一概に金を儲けたいことが初めにきているわけじゃないからCをやっているんじゃないか と 思っている。

初めの動機は「目立ちたい」、「みんなに使って欲しい」、「影響力が欲しい」。そういった理由でCは生まれると思う。色んな理由があっていいと思う。

僕が考えるのは「何故目立ちたいのか」「何故みんなに使って欲しいのか」「何故影響力が欲しいのか」表面上の理由に潜んでいる本当の理由を自分なりに考えた。ということで今回記事を書いた。

心の底に潜むイデア

僕の仮説ではあるけれど、人の生物活動の本質は生存競争に勝つこと(故に火星への移住などが考えられている)のではないか、つまり他生物と同様、生存競争に勝つ点では人もゴキブリも同じく「創造したい」「進化したい」そういう風に思っているという仮説が前提にある。

しかし、人には理性がある。他の生物にあるのかは知らないけど、人の最大の特徴は理性だと。理性に訴えかけることにより、人と人はシナジーを生み出すことができる。文字・言語・様々な概念を生み出すことができた。今僕が書いているMacBookも、この理性による産物なのだと言いたい。

ここで私の人生史上、もっとも素晴らしく影響を受けた名哲学者ショーペンハウアー先生の理性についての解釈を引用しておきます。

理性とは、抽象的認識である概念を扱う能力であり、それ以上でもそれ以下でもない。概念を扱うというのは、知覚、つまり視聴覚や触覚に現れた感覚を脳が悟性によって時間と空間と因果性の形式をもって現象として現れた客観世界から特定の要素を抽出し、その要素同士を組み合わせて抽象的思考を行う能力のことである。

人は人の理性へ訴えかけることによって、理性を認識し、自分が人間だ、動物や虫、生物ではないことを認識するんじゃないかと考えている。

旅をする人は「自分が生きていることを実感するために旅をする」と聞いたことがある。正に、旅を通して見たもの、受けたことが理性に訴えかけてきて「美しい」とか「嬉しい」、時には「悲しい」みたいな感情を得ることで、生きていることを実感するんじゃないだろうか。

理性に訴えかけたいという感情は、人が人である上で、発明された理性の生み出し方の歴史の名残だったりするのかなとも思っている。つまり、人間の理性が不十分だった時代があり、理性を生み出すまでの過程でお互いの理性に訴えかけることで、理性を発展させてきたということである。

以前記事でも書いたことのある「イデア」と呼ばれる、物にも概念にも本当の姿があるという話をしたのだが、その認識のために僕は理性を尖らせている。方法論にも、イデアは存在しているし、もちろん抽象的な概念にも存在していると考えている。

そのイデアは、時に理念という呼ばれ方をしたり、本質という呼び方をすることもあるが、ここではイデアと呼んでおく。

僕はこのイデアをより磨くためには、同じようにイデアの認識をしようとしている人と対話をする。対話を深めると、たとえ業界は違えど、共通のイデアが生まれることがあり、教え合うことができるし、間違えも指摘し合うことができる。特により抽象的であればあるほど、業界という枠組みなんか関係なくなってしまうと体感している。

そして、意識してイデアの存在を直感していそうな友達・社会の仕組みに理不尽を感じている友達にはこのイデアの存在を教えている。仕組みに疑問を抱くということはイデアは違うところに存在していると直感しているからであり、彼らはイデアを知りたいと思っていると思うからである。イデアを認識し、体系立てることで、資本主義も・アートもデザインも実はシンプルに組み立てることができる。

そうして、僕のイデアは成長する。彼のイデアも成長する。それが、アートの根本にある理性への訴えかけにより、人が人であり、生存競争を勝つための一歩だと信じているから。

イデアについて認識を深める上で大事な原則は、まずは理性を認識するためにも、依存状態と自立状態の認識を体験して考えまくるしかないとは思っている。オススメの本は 7つの習慣嫌われる勇気はぜひ呼んでいただきたい。この依存状態と自立状態の概念を把握すると、資本主義をより上手く認識できるようになると思うし、それゆえにサービス設計にも生きてくると思う。

目立ちたい欲求は、伝道師なのではないか

進化した後の名残なのか、あるいはより人が人であるための行動なのか、「目立ちたい」とか「みんなに使って欲しい」そう思う感情は、まるで伝道師のような存在になり得ると考えています。ピアニストが素晴らしい音色で音を生み出し、人の心に「美しい」という感情を生み出し、原始的かもしれないが理性を認識させます。 

そのように理性へ訴えかける行為を行えることを芸術家や伝道師たちは幸せに感じるでしょう。そして、お互いが理性を認識し合うことで理性は磨かれ、理性は発展し心も満たされるだろうし、そして新たな発明も生まれるのじゃないか。と思っております。 真似ではなく、盗むというのは発明になると考えており、そのためには理性を認識する必要があると。。。

ピアニストが素晴らしい音色を生み出すように、僕はキーボードを叩きたい。 


以上


(※ まだまだ不十分な悟りであるとは思いますので、矛盾点もあるかもしれません。こそっと教えてくれると嬉しいです。温かく見守ってやってください、どうぞよろしくお願いします。)

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