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トラウマ【エッセイ】二〇〇〇字

アゴが外れたこと、ある? 恥ずかしながら、ある。
札幌で一浪生活をしていたときのことで、ある。

大学受験に失敗し、親元から始めて離れ、桑園予備校(いまは、ない)に通いながら、下宿生活をすることになる。
その下宿屋(って、加川良の歌もあったなあ…)は、70歳過ぎ(たぶん)のおばさん1人で営んでいた(と思う。家族の記憶がない上に、挨拶以外の会話が少なかった)。場所は、西保健所の裏。札幌西高校の近く。大きめの民家の2階建て。台所には8人くらいが座れるテーブル。一階の離れに、北大生が一人。二階は、予備校生ばかり。四畳半位の広さが六部屋あった。屋上には、物干し場があり、隣の家と屋根伝いに出入りできる構造になっていた。反対側のお隣は、(なんと! 連れ込み)モーテル。と言っても、普通のアパートが、その“役割”を担っていたという趣き。受験生の下宿としては、ちょっとねえ、という感じなのだが、入るときは気づかなかった(のちにこのいかがわしいお隣さんがらみの話があるのだが、ここでは逸れてしまうので、敢えて語らず)。
その物干しから、お隣の大学生らしき人物が遊びに来ていた。賭け事好きで、受験生を相手にした掛マージャンが目的。そのお方は、競馬もパチンコも、むろん、おやりになる。
その頃(1969年)、東京都知事に立候補した美濃部亮吉さんが、公営ギャンブルの廃止を選挙公約に掲げていた。
その動きに、彼が、「いいんだよ。廃止しても。最後は、ジャンケンがあるし」と宣うほどに、筋金入りのギャンブラー。常に(競馬場とパチンコ店以外は)家にいらしたので、授業には出ていなかったようだ。
私は麻雀の経験がなかったので、見学する程度。部屋で勉強するか、文学全集の文庫本を読んでいるか。いや、文庫本を読んでいることのほうが多かった。ひとりになった解放感から。浪人させてもらっているという緊張感もなく。
すでにタバコは吸っていた。
東京での受験の最終日。受験会場の最寄りの駅の売店(「キヨスク」となる3年前)で、初めてタバコ(とマッチ。使い捨てライターは、この5年後から)を買う。高校時代にトイレで吸っている輩はおり、興味はあったが吸うまではいたらなかった(コソコソしていて“めんこくない”)。
“終わってしまった・・・”という虚脱感に、ホームで、プカプカ吸っていて、クラクラして、落ちそうになった(試験は、落ちた)。

ある日、タバコの煙で「輪っかづくり」をやっているとき。事件が起きる。
輪を作るのは、口の中にできるだけ多く煙を溜め、口を「O」型に開く。そして、煙を途切れさせないように少しずつ吐き出しながら、頬をポンポン…と指で軽く叩くか、アゴをちょっと下げ舌を軽くはじくとできる。だが、下げ過ぎたようで、落ちたまま戻らなくなったのだ。さかんに手で戻そうとするのだが、戻らない。何度か試みるが、痛みが半端なく、ムリだった。顔は真っ青。口からはユダレがダラダラ、筋になって床に落ちる。
非常事態とばかりに、麻雀をやっている部屋に駆け込んだ。
「アアアア、アホカハスレタアアアアア」
「アアアア、アホカハスレタアアアアア。ホンホホンホ」
と繰り返すが、大笑いするだけで、まともに受け取ってくれない。いつもの茶目っ気で、からかっているのだろうと言うばかり。
そこで、そのギャンブラーが言った。
「こりゃ、ホントだぜ。こいつ、アゴ外れているよ。うちによく来る」と。
「アアアア、ホンホホンホ。ホンホホンホ。」
「オヤジに直してもらえ。行こう」
となった。
実は、ギャンブラーは、整骨医院の家の息子なのだ。
屋根伝いではなく、一緒に入口から入って、父親に“通訳”してくれた。
その先生は、柔道家らしくガタイもいい。
口の中に両方の親指を入れたと思ったら、一瞬で元に戻ったのだ。
「良かったな。隣が整骨医院で。外科の医者のところなんか行ったら、こんなに簡単には入らないし、スゲー痛いぞー。気合いだからな、気合」
とニタリと、柔道家は笑った。

このときのことが、いまに至るまでトラウマになっている。痛さは、もちろんだが、ユダレを垂れ流し、「アアアア、アホカハスレタアアアアア」となるのは、金輪際ごめんだ。
それ以来、外れたことはないが、ちょっとした拍子に、アゴがガクンとなり、いまにも外れそうになることがある。大あくびをしたとき。大笑いをしたとき。歯医者で大きく開けるとき。恵方巻を食べるとき——。そして、風邪をひいたりして免疫が落ちているときは、アゴの筋肉が弱っているのか、食事しているときでもガクってなることが、ある。

そうそう、接吻なんかも危ない。ディープじゃなく、キューピットのように軽く「チュッ」ってやるほうがいい。10年の恋も、涙とユダレ、そして大笑いとともに終わってしまう。

(おまけ)

彼の作品を読むのは好きだ。しかし、彼の「声力」のなさ、そして、この一言のような発言だろうね。春樹が〇〇〇〇賞をとれないのは(ごめん、ハルキスト諸君!)。

朝日新聞朝刊2023年11月6日

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