見出し画像

あなただけが、なにも知らない。#17

 前回はこちら▽


 僕は、中に潜む冷たいもう一人の自分に吸収される。

僕が僕でなくなってゆく。

全身が黒くなって、影になって、見上げる僕が本物の僕で、見下ろす僕は、偽善の毛布で包れた僕。

 朦朧とする意識の中で、喘ぎの様な声を吐き出したかもしれない。それはまるで自分自身を喉に詰まらせたかのように。

「なぜ、君は優しい?」僕は、彼女の右肩を掴んでいた。「なぜ……」

自分でも問いかけている理由は分からなかった。

 彼女は、ただ僕を見つめるだけで何も言おうとはしなかった。

南海は自分の胸の前で手を握りしめ、肩をすぼめ怯えている様に見える。ただ、視線は僕に強く向けられている。

「なぜ? なぜなんだ。なぜ君は僕に優しくする。僕を憐れんでいるんだね。僕を騙そうとしているんだね。僕を怖がっているんだね。そうだろ。うん、そうだよね。僕は、誰にも優しくされない人間なんだ。僕は幸せになっちゃいけない人間なんだよ。君はそれを分かっているよね……そうだろ? 僕がどうゆう人間なのか、君は分かっているよね。僕がどこから出てきたのか知っているよね。あの時、テレビから声が聞こえて来たんだ。無理に感情を作っていた。時折、目を自分の手元に落として、誰かが作った言葉を美しく発していたんだ。空から撮った映像は、広い海を小さく見せていたよ。とても小さくね。いつもは混雑している美しいビーチは、同じ服を着た何人かの大人だけが独占していたんだ。僕は、ずるいって思ったよ。声に出していたかもしれない。『現場からの中継です』ってどういう意味なのか、その時はまだ……分からなかったんだよ。そしたら、見慣れたその場所が映し出されていたんだ。僕は小さな両手を大きく広げて、目を輝かせていたと思う。口を大きく開けて、涎を出したまま、嬉しそうに手を叩いていたんだ。『ママ。ママ』そう言っていた。今、思い出しても恥ずかしいよ……。気が付くと、僕は知らない人の膝の上に座っていたんだ。この人は誰だろう、僕を抱くこの人は誰なのだろうって思ったんだ。うん……そう思った。そしたら甘い物を口の中に入れられたんだよ、どうしてかな?」

「拓海……」

 彼女の言葉が、初めて僕の言葉の間に入った。……僕は、そのまま続けた。

「僕たちは、ここに描かれた海で会っていたんだね。そのときの記憶の大半は、今の僕の中からは抜け落ちてしまったけど、でも、あの時は幸せだったと思うんだ。母さんが居て、父さんも居た。僕が笑うと、必ず二人も笑ってくれた。始めてここに来た時は驚いたよ。確か……そう、大きな水たまりだと思ったんだ。その頃はまだ海という言葉を覚えていなかったからね。その時の海の感触は……うん……気持ちよかったよ。海が塩辛いのには驚いたよ。一度だけ、一人で海の方に歩いて行ったとき、波で濡れた砂に足を取られて転んでしまったことがあるんだ。そこに偶然、大きめの波が来て僕は危うく波に連れ去られそうになったんだ。……多分そのときに、海の水を飲んでしまったんだ。しばらく口の中が辛くて不味くて、僕は泣いてしまったんだ。君は何故、海の水が塩辛いか知っているかい?『岩などに含まれている塩分が水に溶け込んだからよ』って、母さんは言っていたよ。否、母さんじゃなかったかな?誰だったかな?えっと……」

 目が熱くなり、胸がギュッと締め付けられる感覚。全身の血液が足首から先へ全て落ちてゆく感覚。何処へ行っても、何をしていても、今のこの感情からは逃げられない失望の闇の中に……僕は今いる。

「……君も、君も来ていたね。そう、君も幸せそうだった。君の母さんも父さんも笑っていたよね。僕たちは、まだ上手く歩けなかったけど、手をつないで浜辺を歩いたよね。後ろから僕達の両親が着いて来るのが可笑しくて、二人で笑って逃げたのを覚えているよ。流れついた木が、小さな波の行く手を遮っているのが珍しくて触ろうとしたけど、僕は母さんに止められたんだ、残念だったよ。君はどうだった? 僕は触りたくて泣いたけど、君は笑っていたよね。きっと、木に触れる事が出来たんだね。その後……たしかその後も、何度かあの海で会ったような気がするな。何故だろう」

 彼女は、雪解けを待つ野兎のように、僕の話が終わるのをただ静かに待っていた。

「僕の両親と君の両親は仲が良かったよね。とても仲が良かった。僕たちを何処かへ置いて、誰かに預けて、よく会っていたね。僕は君が居たから寂しくなかったよ。でも、君はよく泣いていたね。君はあの場所が嫌いだったんだね。だから泣いていたんだね。実は僕も、あの場所は嫌いだったんだ。僕は母さんに連れていかれたけど、君はいつも父さんに連れて来られていたね。その後、僕の母さんと君の父さんは、どこかへ行ってしまうけど、僕は君が居たから平気だったよ。暫くすると、君は泣き止んだね。あの時の君は、なんだか凄く寂しそうで、何かを諦めたような、そんな顔をしていたよ。それからは二人で遊んだね。親が迎えに来てくれるまで遊んだね。でも、僕は別に遊びたかった訳じゃないんだ。そうするしかなかったんだよ。誰かに何かを渡されて、それで遊べと言われるから遊んでいたんだ。僕がそうしたくてしていたことなんて、あの場所には何一つなかったんだ。君は……どうだった?」

 ……つづく。by masato

サポートは自己投資に使わせていただきます。