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イジメられる側は悪くない「わけがない」。振る舞いを学ぶプロセスとしてのイジメ

「イジメられる側は悪くない」「いじめる側の人権意識が足りないからイジメは起こる」そして、「センセイも親も悪くない」のだ。三方丸く収まるのである。ではなぜ自殺はなくならないのだろうか。イジメで苦しんでいる子供はどうなる?

このドグマがこれだけ多くの人に語られるということは、みんな「イジメの原因はイジメられる方に(責任が)有る」と思っているのだ(悪いわけではない)。僕は教育制度自身の硬直化が問題だと思っている。

最初に結論があって、現実を見ようとしないことを「ドグマ(教条主義)」という。文科省のドグマは頭の悪い優等生が考えそうなことである(笑)。(学校)制度の設計をする方々(お役人と専門家)が私達を苦しめている。

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お祭りのような地域での集まりが無くなったのが問題だと考える人達もいる。頑張って再現しようとしても僕は否定的に思う。なぜならば、その子どもたちは大きくなったら皆「散り散り」になる。地域のお祭というのはその地で長くともに生きる人達の自然な反応なのだ。僕の子供も小さい頃行政のお祭りイベントに強制参加させられたが、毎年、その一回しか顔を合わせない子供と合うだけのイベントである。写真は僕の小さいことのお祭り。徐々に地域が崩壊していく過程の一シーンである。僕もハッピきていた。父の実家の子供台輪を引いているのだと思う。地域はまだ機能していた時代である。

社会の変化を見て、その変化にい従って「制度」は柔軟に変わっていた。そうしないと本来のヒトの「律(環境に対しての自然な反応)」が歪んで現れる(注)。しかし、行政という官僚主義が金を出したとたに硬直化して「政治的に正しい」制度が私達を苦しめる。

社会は変化していっているのだから、その変化に対応した制度を見つけなければならないのだ。ところが、硬直した官僚主義は前例を重視して、専門家(大学の研究者=イイコイイコで人生を送ってきたセンセイ)の言いなりである。そうすることで自分の責任は回避される。

自殺しても無駄死である。止めたほうが良い。

自分の体験を考え突き詰め、普遍的な問題をあぶり出そう。そして皆で知恵を合わせて乗り越えよう。僕のnoteの主題である。

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イジメられる側にも問題は有る。しかし、それはアタリマエのことである。

子供が、イタズラをしたら親は怒る。子供が財布からお金をくすねたら怒る。よその子をパシリに使っていたら(発覚したら)おこる。時分がイジメられていることをセンセイに告げ口したらみんなにハブられる。

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これって何を意味するのだろうか?「悪いこと、そのコミュニティで許されないこと」をしたら報復を受ける。ということである。

これは正しく学ばなければ、大人になった時に逮捕される。

イジメが始まる時期は親から自立して、欲望が社会化される時期に一致する。「欲望の社会化」はセックスや食事の対象をコミュニティから調達しようとする時期である。そして、当然少ない価値を同じ欲望を持つ競合奪い合うことになる。これは20年後でも50年後でも同じである。

つまり、どの様に社会の中で自分の欲望を満足するのかというルールを学ぶ過程といえる。間違えたことをしたら怒られ、正しい振る舞いを学ぶ。イジメという残虐な関係性は私達が内部に持っている『律(ルール)』なのだ。

では、なぜこんなに子供をいこんでいるのだろうか?年寄りは昔はそんなにひどくなかったという。なっぜこんなになったのであろうか?

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「多世代」が一緒に原っぱで遊んでいた時代

僕の少し前までだと思う。年代が複数に渡る集団が構成されて、一緒に遊ぶ事が多かったと思う。そしてその集団の中で何をしたらいけないかを学ぶのだ。

親の財布からくすねるときは少額を数回に分けろとか、小さい子をイジメるなとか、子供同士でしかわからない身体の変化と不安を共有する。

確か、文化人類学の社会の類型の一つに同じ年代のグループで生き方を共有するというものがあったような気がする。どうだったろうか?教えて頂戴人類学に詳しい方(笑)。お祭りなどでも「若者衆」「壮年衆」「年寄衆」に分かれている事は実感する。

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父の実家の従兄弟(10歳年上)と近縁の子供と一緒に遊んでいる所。父が写真を撮っている。おそらく一緒に遊んだりしているはずである。従兄弟とは今でも付き合いがある。来週父の一周忌は二人で酒を飲む。当然一番小さいのが僕。

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振る舞いを学ぶプロセス

役人もこの事には薄々気がついているようである。しかし、イジメられる本人が悪いとは口を避けても言えないから「ソーシャルスキル不足」でイジメられるという理論になる(イジメをソーシャルスキルの不足と断ずる本は多いが、全部落第である)。

結局はイジメらラル側に問題が有ると言っている。最近では「発達障害」のような病気だから仕方がないのだという。文科省の役人には吐き気がする。自分たちの制度設計のまずさを苦しんでいる子供に押し付けているのだ。恥を知れ!

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しかし、言葉使いを教え込んでも、無理なのである。人のコミュニケーションお大半は言語以外の部分で起こる。誰でも心のこもった謝罪か、薄っぺらの言葉だけかの謝罪かはすぐに見抜ける。一流の詐欺師は本心から信じているからヒトを騙せる(ン、俺か?)。

学校で教師が指導できる範囲など限定的である。知識を暗記させ子供を順序つける(銀行型学習)。それしか出来ないのである。

振る舞いは、子供同士、教師の姿、親の背中をみて真似るのだ。

学校を卒業した子どもたちが言葉使いをわからないということは言われて久しい。それは、古い世代が「振る舞い」を学ぶコミュニティを持っていたからである。

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当然であるが、これは学校レベルでは収まらない。卒業して社会に出たあとも「振る舞い」を学ぶ機会のなかった世代は異質な存在となる。

「新人類」「空気読めない」などと言われた世代がいる。既に大多数となってきている(笑)。

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僕の教育のモデルの変遷。

1960年代に教育のインフラが整備されて、近代的なカリキュラムを含めた制度が設計される。学校は「寺子屋」を制度的なモデルに作られた。そこには「振る舞い」を学ぶ「子供のコミュニティ=年齢的な広がりを持った遊ぶ集団」は考慮に入れられていなかった。しかし、まだ地域は狭く閉じていた。

1970年代から職場と過程の分離が始まる。そのために、地域での教育のコミュニティが消える。大人自身もその地域での活動から離れるのである。子供も同様だ。

そのために、学校教育の内側に人権教育や振る舞い教育が盛り込まれる。しかし、道徳や小ミュニティのルールは座学では学べない。実際のコミュニティの中でしか学べないのだ。

失敗して、起こられ、いじめられてはじめて学べる。その時の現場に「年長の子供」がいたら全く違う。同じ年代の子供だけのコミュニティでは破壊的なところまで追いつめるのだ。

1980年代を分水嶺としたグローバリズムの蔓延は「そこでともに生きる人達のコミュニティ」を完全に破壊したのだ。もはや戻ることは出来ないが、今の私たちの苦しみの原因を説明する仮説がなければどこに向かって良いのか分からない。

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「振る舞い」は、教育では教えられない。他人を見て接して真似ることで習得していくのである。親の姿、教師の姿、仲のいい友達の姿、少し年上の子供の振る舞い、そうすることで年下の子供にどう振る舞えばいいか分かる。

先生も地域に住んでいた。父母と仲がよく、先生の子供がクラスメイトであったりもした。他人ではなかったのである。

教育関係の本を読むと「学校を核に地域つくり」的な主題のものも多い。しかし、ベクトルが逆である。強制的に地域イベントに参加させても嫌がられるばかりである。親同士が仲良くなれるわけがない。

その地域で共に生きて年取った時に茶飲み話が出来る関係になると決心していれば親同士も仲良くなるのだ。今の教師のローテーションは多くの問題を秘めている。無責任教師が生まれるのは「制度」の反映でしか無い。教師を責めてはいけないし、教師に課外活動を無理にさせてもブラック学校になるだけである。

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兄が中学校のときの岩渕先生、母の友人で、僕たち(クラスの数人を)を釣りに連れて行ってくれた。もちろんプライベートである。あの頃は先生が地域に住んで、年取ってもいたような気がする。子供がおとなになりかつての先生と一杯やるなどというのは嬉しいものである。逆に言うと年取ったあとも付き合うから、いい加減なことは出来なかった(注)。

「学校と言う、質の悪い教育制度」は社会自身の反映でしか無い。社会自身が地域で生きる人たちを結び付けなくなっているのだ。

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オランダのイエナプラン

ノスタルジアに浸っていても仕方がない。何が出来るだろうか?教育関係の本を読んできたが、皆ほぼ役に立たなかった。そして、答えは意外なところから見つかった。組織論の本を読んでいたら出会ったのである。

考えてみれば、今の社会の問題と学校の問題は結びついている。ピーターMセンゲさんという方が書いた「学習する社会」と「学習する学校」の2冊である。その中でオランダのイエナプランと言う教育制度を紹介しているのだ。

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「学習する組織」は素晴らしい本だった。厚い辛いなあと思いながら、驚くほど示唆に富んでいる。

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イエナプランとは3年を単位として学年を構成して、その期間内にカリキュラムを消化していくのだ。

当然、大きな子供もいるし幼い子供もいる。一緒に学ぶのだ。そして何よりも重要なところは、小さい子供が一年後に上に上がった時に、教えてもらった振る舞いを下の子に向けるのだ。僕はこの事を知ったときに涙が出てきた。

昨年横割りの学校制度では、分化の継承が行われない。しかし、この様にオーバーラップしていけば、子どもたちが文化を伝えられるのだ。無論、嫌な上もいるだろうけど、教師がが注意深く見ることで、指導を行える。先生も学ぶことが多いだろう。

特に小学校くらいでは子供の発育年齢と暦年齢のさは激しいこの時期の1年の差はとんでもない違いなのである。

小学校の1~3年・4年〜6年・中学校の3年間を一つにまとめ、高校もそうする。授業は単位制にして興味のある分野を学び、その子の発育年齢に従って授業を受けるのだ。

フリースクールや生徒の少ない離島等ではあって当たり前のものである。

リヒテルズ直子さんは2012年に尾木直樹さんとの本でイエナプランを紹介している。たぶんいま日本で手に入る本ではとても良質の紹介である。読んでみるといと思う。

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尾木直樹さんってとても素晴らしい本をお書きになっている。意見は一致するわけではないが、教育評論家の中では面白い。一度テレビで娘さんが相当反抗して苦しんだことを告白していた。素敵な話である。教師出身だったと思うがそれが良い点でもあり、弱点でも有るように思う。

リヒテルズ直子さんの本を読まなかったら、イジメについては何も語りたくないと思っていただろう。どうにも出口が見えていなかったのだ。

しかし、オランダでは出来ているじゃないか。それが日本に適しているかはわからないが、それぞれの人が学び、自分の生きている社会をどう変えたいか考えるきだと思う。

教育の問題は、未来のデザインである。

自分の人生の終わりをどうなるかを考えることだ。教育は人を作る。そして未来の人たちが僕の老後を見てくれる。やっぱそこに行き着くのだ(笑)。イジメの問題は、子どもの問題ではない。

「社会でどう振る舞うか」を学んだ大人はきっと人に優しい社会を作ってくれるだろう。

諦めるのはまだ早い。

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僕はジブラーンさんの詩がが大好き

1900年前後の詩人、哲学者である。昔から同じことは悩まれてきたのだと分かる。子供と大人の関係。学ぶこと、教えること、これは永遠の課題である。悩みながら共に未来をめざしたい。

教育というのはマンユアル的な知識の伝達ではない。より豊かで皆が幸福になれる社会を目指す終わり無い営みなのだ。僕は信じている。

あなたの子はあなたの子ではなく、大いなる命(いのち)の希求(あこがれ)の息子(こ)であり、娘である。あなたを経て現れて来ても、あなたから生まれた物ではない。あなたと供にいても、あなたに属するものではない。
あなたの愛を与える事はできても、あなたの考えを与える事はできない。
子どもは自らの考えを持つのだから。
その身体を住まわす事はあってもその魂(こころ)までも住まわすことはできない。
子どもの魂は、あなたが夢にも訪れる事のできない、明日の館にすんでいるのだから。
子どもらのようになろうと務めるのはいいとしても、こどもらをあなたのようにしようとしてはならない。
生は後ろには歩まず、昨日を持つことはないのだから。

ジブラーン 小林薫訳『プロフィット(予言者)ゴマ書房』

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雇用(人のつながりの)の変化

グローバリズムは「職」と「家庭」の距離を大きく話した。仕事と生活が切り離されて、時給で生きるようになる。仕事がサービスとなり人が人っとして雇用(共に生きる事)されなくなるのだ。

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母の実家は箪笥を作っていた。弟子がたくさんいて家族のようにtもに生きていた。当然、働いてくれた弟子たちを見捨てることはなかったのである。まだ年金がなかった時代である。

経済学者はあたかも、今の制度が最高で過去の野蛮な制度は考えだにしない。しかし、私たちのメンタリティは、長くこの時代に培われたのである。今の政治は、貧乏人を見捨てて平気である。断舎離させ、生活保護で暮らして人としての尊厳を奪う。

先生が数年おきに移動するという政策は、昔からだろうか?

なにかの映画で、老人が青年にひどくイジメられるシーンがでてくるのを見たことが有る。老人はその男の若い頃の学校の担任だったという。自分が生徒とともに地域で生きるとしたら、責任持った教育をするだろうと思う。

とは言っても時代は変わったのだ。親たちもそこまでは望まない、ならば、偉そうにするのも止めていただきたい。受験技術を教えるだけのサービスとしての学校は、ひどい人間を生む。既にそうなっているのだ。

何よりも、安定した職業だからといって教師になるのがおかしい。親が教師だと子供もなりやすいだろう。なんで世襲するのだ?役人も医師も政治家も、センセイと呼ばっる職業は、同じ様に世襲する。この問題は格差の方程式の方の問題では有るが。

どうなれば良いのかは全く見えない。しかし、少子化が進みこれからの50年での変化はもっととんでもないことになる。楽しみである。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。