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サッカーが与える絶望と希望。ティトー、ユーゴ内戦、そしてオシム 2/9

#2:危険で壊れやすいモザイク国家

■6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ、1つの国家

ただでさえ複数の民族が勢力争いを繰り広げていた場所に、様々な帝国や西欧列強が絡み、さらに状況を不透明で混沌としたものにする。バルカン半島は、昔から常にいくつもの火種を抱えてきた地域だった。

その中央部で1943年に建国されたのが、「ユーゴスラヴィア民主連邦」である。同国は後に「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」(1946年成立)、「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」(1963年)と名前を変えていく。しかし、ほんのちょっと衝撃を加えただけで崩れてしまうガラス細工のような傾向、「モザイク国家」の危うさは色濃く残り続けていた。

このような特徴を象徴するのは、同国に冠せられていた名称だろう。かつてのユーゴは「6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ、1つの国家」と呼ばれていた。

6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ、1つの国家

■危険で壊れやすい、モザイク国家 

ただしユーゴの実情は、はるかに複雑だった。

たとえばユーゴを構成していた共和国の一つ、セルビアなどは後に独立するコソヴォだけでなく、ヴォイヴォディナという自治州を内包。クロアチアでは、ローマ・カトリック系のクロアチア人だけでなく、正教徒であるセルビア人も一定の勢力を維持していた。 

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(以下ボスニア)の状況は、セルビアやクロアチアにも増して複雑だった。彼の地ではセルビア人、クロアチア人だけでなく、ムスリム人(イスラム教徒)が拮抗していたため、民族を国家の単位とせず、あくまでも「物理的な枠組み(境界線)」として国家が設けられていたほどである。ユーゴは6つの共和国から構成されていただけでなく、各共和国の内部もモザイクのような構造になっていた。

■建国の父、ティトーの存在感 

 にもかかわらず、ユーゴという国家が成立していたのは、「建国の父」ヨシプ・ブローズ・ティトーに負うところが大きい。

第二次大戦中、「パルチザン(人民解放軍)」を率いた総司令官は、連合国側の支援を受けながら、ナチス・ドイツなどの支配に抵抗。ついには勝利を勝ち取る。初代首相、後には終身大統領にまでなったティトーは、強烈なカリスマ性と存在感、リーダーシップによって、モザイクの如き地域を巧みにつなぎ合わせていた。

ユーゴ建国の父、ヨシプ・ブローズ・ティトー。彼は軍人として優れていただだけでなく、
カリスマ的指導者としてもモザイク国家を束ね続けた (写真提供:Shutterstock)

これを側面から支えたのが、「ティトー主義」と称賛された政治手腕だ。ティトーは社会主義を標榜していたが、戦後早々にソ連のスターリンと決別。市場経済を部分的に取り入れながら、経済を発展させていくことに成功する。一方、外交においてはアメリカやNATOと連携しつつも、非同盟(西側にも東側にも所属しない立場)を貫くなど、独自の道を模索し続けた。

■社会主義国の中で、最も社会主義らしくない国

結果、ユーゴは「社会主義国の中で、最も社会主義らしくない国」と評されるようになっていく。このような政治手腕は「モザイク国家」を構成する各共和国(各民族)で支持されただけでなく、海外でも高い評価を受けた。

やがてソ連では、スターリンによる独裁の実情が明らかになり、中国でも文化大革命の嵐が吹き荒れる。このような中、ティトーが率いるユーゴは、社会主義や共産主義を支持する世界中の人々の間で、一種の理想郷と目されるようになったと言っても過言ではない。

■国家のアイデンティティを育むために

ただし、いかなティトーといえども、自身のカリスマ性や政治手腕だけでユーゴを束ねることは難しい。6つの共和国の間には浅からぬ因縁があり、各共和国も多くの火種(民族問題)を抱えていたからだ。

建国を果たしたティトーは民族の軋轢を超えて、「ユーゴ」としてのアイデンティティを育む必要に駆られていた。それはモザイク国家の脆さを補いつつ、自分のカリスマ性を高める上でも役に立つ。かくして活用されたのがスポーツ、なかでもサッカーだったのである。

 (文中敬称略)
 (写真撮影/スライド作成:著者)

『ウルトラス 世界最凶のゴール裏ジャーニー』

前編:#1:なぜユーゴはわかりにくいのか?

次編:#3 : 建国の父がサッカーを選んだ理由


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