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自己犠牲試論。

昨日とあるサイトで、齋藤飛鳥さんが自己犠牲について語っているインタビューを読んだことがきっかけで、それからずっと自己犠牲について考えていた。元乃木坂46の齋藤飛鳥さんは、大江健三郎や阿部公房などの骨太な純文学作品を読み倒すような方だ。もちろん、主なお仕事としての多忙なアイドルグループ活動の経験をお持ちだし、彼女だからこその色濃い精神活動をなされてきた方だろうなあ、という印象を僕は持っている。

自己犠牲。他者のために、自らの時間や命など、自分にとって大切なものを相手に捧げるように使うこと。僕自身、在宅介護に携わっていて、他人事ではない行為であり、重くるしく感じる言葉だ。

自己犠牲を考えていくと、「二種類あるな」とまず思いついた。ひとつは、会社や組織、グループ、社会などのための自己犠牲。もうひとつは、他者個人のための自己犠牲。

さらに進めていくと、組織や社会への自己犠牲も、つきつめれば他者たちのため、つまりは人のためになる目的なのがわかってくる。なぜならば、それが「組織の存続」や「秩序の保守」がまっさきに考えられている自己犠牲だったとしても、そういった保守行為により組織や社会が守られることで、結果的にはそこに属してその恩恵を受ける他者のためになるというところに辿り着くからだ。

だけれど、その組織も社会も、当たり前だが完璧にできあがっているわけではないし、完全に正義であるわけでもない。そのような組織や社会を最優先に考えて、そこに人をあてはめていくといった考え方、要するに枠組みに人を当てはめていくものだとする考え方でいると、そのために無理が祟って磨り減っていってしまう人は多くなるだろうし、息苦しさは募っていくだろうことが想像できる。だから、人のほうに組織や社会を合わせていくように設計していったほうがいいな、と僕ならば思う。

そう考えたあとに、ぐるりと「自己犠牲」に立ち帰ってみる。組織や社会がどんどん人間を磨り減らしていく種類のものだったときに、そんな組織や社会のためにさらに自己犠牲をするのはどうだろうか。その自己犠牲が最後には他者のためになるようでいて、でもよく考えると、得をするのは組織や社会という枠組みであって、そこに当てはめられている人間たちはほとんど救われなかったりするのではないだろうか。

組織や社会のための自己犠牲が他の人々に届くぶんは、残り香程度だったりするかもしれない。完全にも完璧にもなり得ない組織や社会が、自己犠牲を吸い取っていく。

かたや、他者個人のために行われる自己犠牲はどうだろう。人から人へ、ストレートにその自己犠牲による働きかけが伝わる。組織や社会は介在していないのだから、残り香だけ届く、ということにはならない。

あとは、自己犠牲がどれくらいなされるかについても書いていおきたい。命をすべて投げうってまでの自己犠牲もあれば、比較的わずかな時間をその人のために使うという自己犠牲もある。自己犠牲だ、自己犠牲だ、と主張しても、他の多くの物事と同じように、そこにはやっぱり多寡があるのだ。

人から人への自己犠牲の場合、そうするほかにやりようがない要因・事情があるわけだけれども、そういった場合にこそ、公助や共助が差し向けられるべきなのではないだろうか。自己犠牲はできるだけ、無いほうがよい、と僕は思うからだ。

最後に。自己犠牲を考えたことがないっていう人はいると思う。彼らは他者への想像力に欠けていたりする。どうしてかというと、そういった価値観を基盤とする人は、利己的に、他者の時間も労力も自由もなにもかもを自分のために奪い取ろうとしてしまう、と考えられるからだ。自分自身の範囲でしかものを考えられないのだ。自己の欲望や利益ばかりに囚われての行動は他者にとって害になる。それも、ときによって致命的なほどに。

自己の欲望や利益にとらわれる人生の罠(市場主義経済の罠でもある)。それらに嵌まりきってしまった段階から頭一つ抜け出してもっと心地よい空気を吸うためには、つまりよりよく生きていくためには、自己犠牲をするときの心持ちを持ってみること、そういった経験を持つことは有効なのかもしれない。ここまで考えてそう気づくことになった。自己犠牲はないほうがよくても、そういった意味合いで、否定はできないし、拒絶するものでもないし、僕自身も自己犠牲はしてしまうし、なのだった。

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