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その青い世界、赤い冒険者が歩く時 中編 4、冒険者、青い世界の橋渡しへ

 長い時間のような短い時間が過ぎ去って、気が付くと2018年の12月。ここら辺から私よりも周りが動き始めました。
 
 ここら辺になってくると休んでも中々良くならないことを感じ、復職を正直諦め始めていました。もうこれ以上は無理だろうと。どれだけやっても良くならないのだからしょうがないよな。という気持ちになると同時に、将来的に失職することになりますので、その後の収入とかそういうことを考え出します。
 
 ですが結局、転職をしようにも今のところ「サラリーマン」として復帰するためには病気を治さなければ始まりません。世間のスタートラインは「元気に会社に来ること」が大前提なのでそれを満たしていない人は弾かれます。
 
 それとこの時期くらいからでしょうか、私の母方の祖母がガンにかかってそろそろ危ないという知らせが入りました。しかし、私は身動きが取れません。本来ならばお見舞いに行かなければならないとすごく考えていましたが、今の状況で変えることは難しいとのことで行けませんでした。
 
 プラスして免許の更新も迫ってきていて講習会に出かけなければいけないという状況なってきました。

 休職期間が後半年となってきたとき、自分でやらなければならないことが沢山出てきたのです。
 
 そうやってうだうだしていると、やがて年が明けて2019年の2月。祖母は天国へと旅立ちました。
 
 病気になって、一番後悔したのはここかもしれません。最期に会ったのはいつだったのか。それを思い出せないというのがいつまでも心の中に残っていました。そして免許更新。2月に申請をしに行き、何とか講習を受けることが出来ました。
 
 何とかなんとか、動けることは自分でやっていましたが、そこにある一通の電話が来ます。
 
それが大学研究室のOBであるイガさんからでした。
 
 この人は大学の研究活動において、研究活動以外のことに携わってきた人です。ひとまずそんな人から連絡が入り始めたのがこのくらいの時期でした。この時はまだ「心配してくれてるのかな」とか「気にかけてくれてんのかな」とかその程度のことでしたね。
 
 それと今度は一年上の大学の先輩がゴールデンウィークに私に会いに来ると言って、やや強引に来ました。来た理由は自分の会社への引き込みです。休職満期に近いことを知ると私をとりたいと直談判に来てくれたのです。
 
ありがたかったですね。本当に。
 
 そうして時間が過ぎて5月後半になりました。この時点で私の回答は決まっていたというか仕方なかったですが
 
「病気が治る見込みがないので退職します」
 
ということを医師の判断と共に会社側へ伝えました。
 
 会社側はびっくりしたらしいです。まさか辞めるとは思ってなかったみたいで、復職のプランなんかも考えて準備していたらしいのですが、それも全部なかったことになります。
 
 そこから私はまず母親にこの状況を説明しました。
 
 それから部屋の掃除と片付けをゆっくりと開始します。基本的にはほとんどの物を捨てるという方向性で片づけをしていきました。ゆっくりとですが確実に。粗大ごみを一人で出したり、ホームセンターにいって郵送用の段ボールを購入して送ったり。
 
 5月後半から作業を進めて、大体きれいになったのが6月中旬くらいですかね。本当に必要最小限のもの以外は全部捨てた記憶があります。まあ、そんなに沢山ものがあったわけではありませんでしたから。持っていた車とバイクの輸送についても親戚の車屋さんにお願いをして手配してもらいました。
 
全ての準備が整い始めると私は部屋に残されたパソコンに向かいます。
 
「会社へのお礼の手紙を書くことでした」
 
 別に書けと言われて書いたわけではありません。ですが、お世話になった人たちは確実に私の心配もしてくれていましたので、それを無視するわけにはいきません。

 何日かかけて、感謝の手紙を書き終えた後、市役所に行って住所変更などの手続きをして全部いろいろ方をつけた後、部屋には冷蔵庫とスーツケースとノートpcと布団だけの部屋になりました。布団は廃棄することを決めて、冷蔵庫は同期の2人にお願いをして粗大ごみの日に運び出してくれることをお願いしました。ありがたかったです。
 
そして、最終日も近くなってきたときにわたしにとって
 
「サラリーマンとして最後の会話劇」が始まりました。
 


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この物語で書かれていることは全部「ノンフィクション」です。内容は私が2014年頃に病気になり、現在まで続くまでの時間に起きた出来事です。 …

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