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その青い世界、赤い冒険者が歩く時 中編 3、冒険者、2度目の青い世界へ


 その状態を一言で言えば静寂でした。色々と限界でやっていた半年間が過ぎ、書類を提出して3年間の休職期間をあてがわれ、私にとって残された時間に余裕が出来て。そんな状況はまさに静寂でした。
 
 半年間の復職。その世界は赤い世界でした。そこから青い世界に入ったことで急激な静寂が訪れたのでしょう。

ここまで読んでいただいた皆さんにはある疑問が浮かぶかもしれません。

それは私が会社の上司や対応についていちいち腹を立てたり、不満に思わなかった。ということです。

私がそんなに上司や会社の対応について何も思わなかったのは

「住んでいる世界が違うから」であるということに落ち着きます。
 
 「私たちと同じになれないのであれば出て行って欲しい」
 
 これが赤い世界で生きる、赤い人たち、会社の本音です。面倒ですからね。わかりますよその気持ちは。私も赤い世界の赤い住人でしたので。
 
 健康な人間にとっては普段通り生活している環境に制約のある人間が入り込むこと自体が許せないのです。実際に私を心配する声よりも、会社の規則で決まっているから対応しているという感じがもうそれは強くなっていましたので、自分はそもそも受け入れられていないと思っていました。
 
 まあそれはどうでも良いとして、ともかく治療期間が延びて、それで余裕が生まれたので治すために色々試していけることになります。長野で療養をしていた時と違って、千葉県では家族に気を遣うことなく生活を自由にできますし、そもそも生活することに対して基本的に一人で何でもやること自体が、療養になると考えていました。
 
 ここらへんで私の生活リズムは変化していくことになります。まず第一に外出と人混みが苦手になっていた私の行動が決まります。
 
それが「朝方か夜に行動する」というものです。
 
 この理由は人がいないので、気を遣う必要はないということです。
 
 幸いにも近くにアウトレット、ホームセンター、コンビニが有ったので食料品などを購入することも出来ましたし、お弁当屋さんもありました。欲しいものがあればネットで注文して寮母さんが受け取ってくれます。

 それと寮の仕組みと私のお金事情についてですが、寮費の中に家賃を含めた光熱費が入っておりここは定額です。会社から支給される給料は3分の1。金額にして大体7万円くらいですかね。少ないと思うかもしれませんが、現実はこのくらいです。

 そこから車の保険代やスマホ代、ネット代などを払って手元に残るのが大体3~4万くらいでした。会社の寮費がとてつもなく安いことが一番私にとって助かったことです。駐車場代も込みですから。
 
 贅沢品である車を手放せと考える人もいると思いますがここは東京じゃありません。買い物に行く、病院に行く。何をするにも車が必要なのです。
これをわざわざ書いたのは東京に住んでいる友人にそう言われたからです。
説明しないとわからない人もいますからね。

 それと僅かばかり貯金があったり、治療にかかるお金に関しては親が工面してくれることになりまして、とりあえず食費なども考えながらものすごい贅沢しなければ生きていける金額です。こんな感じでお金の面に関しては取り合えず心配がありませんでしたが、当然全く欲しい物を買えませんでした。
 
そのため、とにかく生きる最低限の生活だけをしていました。
 
そんな私の生活はこんな感じです
 
 まず、どんなに眠くても朝8時ごろに買い物に出かけます。生活リズムがおかしくなることもあるのですが、それでも眠い目をこすりながら毎日スーパーへの買い出しを行いました。これも治療の一環だと私は信じていました。朝8時に行くのはなぜかというと開店直後なので人がいません。とにかくレジに並んで待つという行動が出来なかったのでそうしました。
 
 そして帰ってくると大体寮の中が空っぽになっているので、空いている洗濯機で洗濯をしたり、掃除をしたりしました。何となく余裕があるときは洗車をしたり、寮母さんの困ったことを解決したり。そんなことをして過ごしていました。それとプラスして漢方先生に通話して漢方を処方してもらったり、自分なりに色々本を読んでみたりとしました。
 
が、結果から言えば
 
3年間で良くはなりませんでした。
 
 今振り返ってもあの3年間はなんというか本当にサラリーマンの延命だったと感じます。もちろん、真面目に復職をしたいと考えて行動しましたが、病気という存在がそれで治ればいいのですが、全くダメです。
 
1年が過ぎ、盆暮れ正月を1人で迎え、さらに1年が過ぎ・・・といった感じです。
 
 何も変わらないし、何も動かなかったのです。この期間は。
 
 ですがその中で徐々に変化が現れます。
 
「私が病気になって療養しているということが漏れ出したことです」
 
 それまでは全く漏れていなかったのですが、ここへきて漏れ出しました。
別に休職していることがばれたところで何とも思わないのですが、何となく説明が面倒で、どうせわかってもらえないですから説明するだけ無駄になります。だからあんまり言わないようにはしていました。

 どこから漏れ出たのかはわからないのですが、仕事仲間やその業界の人たち。研究室の教授や先輩たちに情報が行くことになります。その結果どうなったのかというと、悪いことは起きず、むしろ私の引き抜きや転職提案をしてくださいました。
 
 それまで関わってきた協力会社の方、そして大学の教授や他のメーカーのSVの方までもが私と一緒に働きたいとか、いい場所があるという風に提案をしてきてくれたのです。
 
「ここへきて初めて今までやってきたことの評価がされた気がしました」
 
 まさしく読んでいる方は気が付いていると思いますが、私の上司は完全に異常な雰囲気を持っています。

 例を一つ上げましょう。これは事実なので仕方がないことです。私は出張班に配属されていたので車の運転をして他県へ行くなんてことは当たり前でした。そして車の運転は大体下っ端。つまり私がすることが多かったのです。

これはいつものように出張先から帰る高速道路での出来事です。

 千葉県に帰るために出発した時刻は18:00です。高速に乗り、しばらくすると激しい雨が降ってきました。そこで私は車のアクセルを多少緩めて75キロ運転してくことになります。

危ないですし、そもそもトラックですし、会社の名前が入っています。

するとその運転の様子を見ていた上司はこう言い放ちます。

「おい、松下。そんなにチンタラ運転して俺に残業代を無駄に払わせるつもりか?」と顔を真っ赤にして、恥ずかしいくらいに大声をあげてきました。

これを本人は何も悪くないという顔をしてやってくるわけですね。

 ではどうしてそんな人を上司に据えたままなのか?もっと上は何も思わないのか?と思うでしょう。ですが現実は数字が正義です。この人はこんな性格であるため強引さがあり、営業で仕事を取ってくることや、無理を言って協力会社に色々させたりとするもんですから売り上げは良いわけです。

 そのため上は素行の悪さには目をつむって、下っ端が理不尽に扱われるのを知らん顔しているわけですね。現実問題としてこの人の下に付いた人は「ほとんど残っていませんでした」嫌になって辞めていくわけですね。

当時は色々おもっていましたけれど、今は何も思ってはいません。上司もまたそんなことに気が付かない、かわいそうな大人だったんだなと見ています。

 だからその異常性には周りは気が付いていて、それを察している人たちが救いの手を差し伸べてきたわけです。私の上司の異常性のもう一つはとにかく「自分以外のことには興味が無い」ことです。私の昇進に関しても無関心で本当に「忘れたまま」置き去りでした。なので、私の給料は21歳から年齢だけの上り幅で昇進による変化は有りません。

 そんな状況でかけられるこの言葉「まっちゃん、こっちで働いてみない?」そういう風に言われたときに、何とも言えない気持ちになると同時に、体調不良が無くなればどんなにいい世界に行けるのだろうかとそんなことを考えてばかりいましたね。
 
 そして漢方先生の話を聞いたり、いろんな人の話を聞いたり読んだりしていくうちにこんな感情が出てきました。
 
「・・・会社に復帰することだけが、自分の生きる道なのだろうか」
 
 そんな疑問を私は青い世界で拾うことになります。その疑問を拾い上げると勝手に心の中で成長をしていきます。気が付くと私は
 
「何か面白いことを書いてみたいな」
 
 という感覚になっていました。
 
 もともと文章を書くこと自体は好きでして、読書感想文や詩や短歌なんかも結構読むタイプです。それと、小説も読むのは好きですし、何よりもアニメやゲーム。それに映画もすきでした。
 
「何かお話を考えてみるかな」
 
 休職してから2年目の2018年くらいになるとそんなことを思うようになって、パソコンでワードを開いてポチポチと自分なりの物語を書き始めました。

  そんなこともやりつつ、2018年の終盤に状況が変わり始めるのです。


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この物語で書かれていることは全部「ノンフィクション」です。内容は私が2014年頃に病気になり、現在まで続くまでの時間に起きた出来事です。 …

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