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その青い世界、赤い冒険者が歩く時 前編 5、冒険者、防具を見つける

 防具と呼ぶとまがまがしいかもしれませんが、この場合は趣味。要するに仕事以外の楽しみという部分になります。それを見つけるために色んなことをやってみました。例えば釣りとか散歩とかそういうのです。
 
「無理のない範囲でやればいいか」
 
という風に考えながらやっては見たもののいまいち。ドライブやツーリングなども良いかなと思ってそんなことも試しては見たのですが「うーん」という感じ。
 
「単に言えばそんなに楽しくはなかったということです」
 
 趣味の最も大切なことは「日常を忘れること」です。極端な話をすれば病気をしていることを忘れてしまうくらいに熱中できる。そんなことが本当は良いのですがそれを見つけるのはなかなか難しいと思っていました。
 
「でも、案外近くに有ったりします」
 
 私にとってそれはゲームでした。それは今流行っているFPS、MMOなどの物ではなく、RPGもの。ドラクエとかクロノトリガーとかですね。あと、自分で考える系のもの。風来のシレンとか。元々、物語が好きだったのでメタルギアソリッドとかダークソウルなんかも面白いなって感じました。
 
「ゲームをやっている時は病気のことを忘れることが出来たのです」
 
 子供の頃、ゲームをやってはいけない家庭に育ったので、どれも新鮮に感じました。これを見ている人は意外に思うかもしれませんが
 
「ゲーム禁止の家庭に育った人は、ゲームを購入すると何か罪悪感がします」
 
 小学生時代、とにかくゲームをやりたいというと、親に殴られていましたし、怒鳴られていて、勉強をしろと本を投げつけられたりしたことを覚えています。それが教育として良いか悪いかは別問題です。別に親を恨んではいません。そういう親に生まれてきた自分が居るだけなので。
 
実は病気になる少し前に「ゲームノートPC」を購入していて、これは私が出張班で家にいないことが多かったため、出先でネットをやりたいと思って購入したものだったのですが、まさかこんな風に役に立つとは思いませんでした。
 
「ネットでゲームを購入して、ダウンロードして遊んでいました」
 
 他人と繋がるいわゆる「ネトゲ」のようなものに手を出さなかったのは、大げさに言えば「約束を守ることが出来ないから」でした。これは単に私が横暴な奴だからということではなく、病状が安定していませんでしたので、プレイヤーの人にゲーム内での約束やお願いをされてもそれを遂行できない可能性があったからです。それともう一つが
 
「拘束時間が自分ではなく、他の要因に縛られることです」
 
 要は体調が悪くなった時、「ごめん、抜けます」ということが相手にとって迷惑になるし、自分も嫌だったからです。なので、ダウンロードして自分のタイミングでセーブしたり、休憩ができる系のゆっくりとしたゲームを選んでやっていました。
 
 それと2月くらいになると精神科の女医さんから「心理テスト」をやってみないか。と言われました。ある程度余裕が出てきていたので了承すると私はそのテストを受けることになります。
 
覚えている範囲でやったテストは3つ。
 
 クレペリン検査は計算力や集中力、注意力を測るものです。単純な数列の足し算をやっていくやつです。多分、やったことがある人は結構いるはずで私も小学生の時にやった記憶があります。
 
そしてもう一つはロールシャッハ検査。これは様々な色のインクを紙に落として閉じて開いたような模様。少し汚いですが鼻をかんだ後のティッシュに付いた鼻水みたいな模様を見て「何に見えるか」でその人の性格や思考を測る。というものです。
 
 心理的な問診表は車の運転免許の適性を見る。みたいなやつだったと思います。正確ではありませんがそんな感じでした。
 
テストの結果としては「特に異状なし」つまり根本的な精神疾患は私の中に存在しないということを言われましたが、クレペリン検査の結果から「もう少し、休んだ方が良いかもしれません」ということを言われた気がします。要するにもう少し落ち着けばよい結果になるということでしょう。
 
この検査の結果は私にとって重要ではなく、医師や親に影響を与えるものです。つまり、私がそれなりにまともである証明をここでしておくことが大事だったのです。
 
そうやって過ごしていき、あっという間に6月になりました。そのくらいの時期に私はあるものが足りなくなっていることに気が付きます。それが「人とのコミュニケーション」ですね。
 
 実家に帰ってきてからというもの、周りの友人はおろか、親戚すら私が病気になっているということ知りません。というか知らせませんでした。なので気軽にしゃべれる人がいなくなっていて、私的には何か物足りないと感じ始めていたのです。
 
 これは漢方先生に会って、自分の都合の良い物を引き込み続けた結果、症状が良くなって「人と関わっても良いかな」という今までにない余力が出てきたわけですね。
 
そこで始めたのがゲーム配信でした。
 
「えっ、いきなり?」と思われるかもしれませんが、私もそう思います。しかし、これは完全に結果論ですが、この時の私の精神状況とゲーム配信の環境が見事に適合していて、私のリハビリ的なコミュニケーションを取ることが出来たのです。
 
ゲーム配信とは自分がゲームとかをやっているのを人に見てもらうことです。見てもらうことでリスナーからコメントが来たりして、相互に会話ができるのですが、私が手を付けたのは2015年。今のゲーム配信とは少し違っていてそれが
 
「そんなに有名じゃなくても人がそれなりにくる時代」でした。
 
多分、今やったらほぼ、人が来ないことは分かります。2015年だったからそれなりに人が来てくれたのでしょう。しかも、私が配信していたゲームの勢いもまだあった時代です。
 
全くの無名の人間が配信をして人を集めるために必要なことが
 
・流行っているゲームをやること
・見つけてもらいやすくするために定時でやること
くらいでした。それともう一つ、私に適していたことが配信サイトの仕様で「30分で一枠」という制限があったことです。この制限はみんなにとっては不評でしたが、私にとってはとても良いシステムでした。何となく体調不良が起きても30分で配信が勝手に切れるので精神的に楽だったのです。
 
 もちろん、最初はおっかなびっくりでした。チャットの会話から始まって、電気屋さんで買ってきたマイクを繋げて、配信ソフトの勉強をして・・・。と色々やっていきました。だんだん、配信を定時でやれるようになってきて30分、1時間、1時間半という風に時間も伸ばしていくことも出来てきました。
 
 私はうれしかったのを覚えていますし、何よりも全くの無名の人間の配信に常時5~6人の人たちが来てくれること自体、恵まれていたのかもしれません。
 
配信の中で色々話しをしたのですが、もちろんネットなので個人情報や顔出しなどはしませんでしたし、何よりも
 
「病気のことを言わなくてもいい。というのが当時の私にとって楽でした」
 
 多分、今なら病気のことを言っていたと思います。当時はその覚悟がなかったので、普通にサラリーマンでゲームをしている人として配信をしていた気がします。
 
それと本を読み漁ったのも一つあります。老子の言葉、バカの壁、リズ・ブルボー氏・・・漢方先生に勧められた本から、自発的に読んだ方がいいかなと探した本を読んだりしていました。
 
こんな感じで過ごしながら、自分の回復を待っていました。
 
時は流れて2051年の9月になりました。この時期になってきて、私がいつまでも自宅療養をしていることに焦りを感じている人が出てきます。
 
「それが勤め先の会社です」
 
これはあくまでも私の主観ですが、会社の上司・先輩たちは私が病気になったことに対して半信半疑だったと思います。今でもこの部分は変わっていないと思います。
 
「松下は働くのが嫌になったからさぼってる」
くらいに思われていたと感じていました。それでですね、休職から会社に復職するためには「準備期間」のようなものが必要になります。その期間は多分、産業医との話し合いで決めるもので会社に行ったり、行かなかったり。みたいなことを繰り返して様子を見る期間ですね。
 
それをやった結果、産業医と本人の判断で復職できるのかできないのかというのを決めるというものです。なので、会社の上司としてはその準備期間もありますので11月の下旬には千葉県に帰ってきてもらいたいとのことでした。
 
休職に入ってから会社とのやり取りは
 
・毎月の診断書と傷病手当金の申し込みのための郵送
・直属ではない上司からの様子見の電話(月1回)
 
くらいしかしていませんでした。特に文句を言われたのは様子見の電話の時で、
 
「お前からも電話して来いよ。どうしてこっちからかけてばっかりなんだ」
 
とのことを毎回言われましたので。
 
 それでこの時期になると流石に焦ってきたのか電話連絡が頻繁に行われるようになります。会社の言い分としては
 
・準備期間の説明
・部署移動などの希望があれば聞くこと
・復職に向けたバックアップ体制の説明
 
などなどでした。
 
 こういうときあり得そうな話をすれば。今の会社に復職するべきなのか、このまま辞めてしまうのが良いのか。それを悩むのかもしれませんが私は復職をするという選択しか取れなかったのです。
 
「他にやりたいこともないし、病気になってしまって、それを受け入れてくれる会社は今のところここだけだから」
 
 一応、会社がバックアップをしてくれるということを信じてみて、それでだめならダメでいいか。やってみるだけやってみるしかない。という風に考えていました。
 
 でも、そんな私に漢方先生は一言、私に残したのです。
 
「松下さんは、サラリーマンで終わってしまうような人ではない気がしますよ」
 
その言葉を頭の中に響かせて、11月後半。私は千葉県に向かいました。

 
 

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この物語で書かれていることは全部「ノンフィクション」です。内容は私が2014年頃に病気になり、現在まで続くまでの時間に起きた出来事です。 …

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