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子育て回顧録 その2 父母の受容

陽(はる)の発達に何かがあると感じたのは、1歳半から2歳頃だっただろうか。

私は保健師だったし、療育の担当もしていたから、自分に子どもができたとき、障害のある子が生まれることも想定はしていたつもりだった。
障害のある子が生まれたら、きっとエネルギーが湧いてきて、可愛がって必死に子育てするだろうと。

陽は、首の座りもハイハイも歩行も定型通りに発達をとげた。よく笑い、目が合い、絵本を好んだ。ニッサン、SONY、ロイズ、2語文を話す前にたくさんのロゴや看板が読めるようになった。覚えすぎるほどだった。
好きな絵本は たくさんあって、瞬く間にいろんなことを吸収した。

健診に行くと落ち着いていられなかった。空港でも目を離すと迷子になりそうなほど興奮した。ホテルの朝食バイキングでは、夫と交代で見守り、陽が走り回り、手当たり次第に触れて、料理や飲み物、食器が落ちてしまわないよう、注意を払わねばならなかった。

車のおもちゃで遊ぶときは、タイヤの回転に目を合わせるため、頬を床につけて車を前後に走らせた。積み木やブロック、パズルには全く関心を示さなかった。
散髪するのは夫の役目。道路をどんどん歩いて進む陽の後を追いながら髪を切る写真が、今も残っている。1000円カットのお店でも終了まで座っているのは難しいと思われた。

もしかしてと感じてはいたが、その気持ちを直視しないようにしていた。
2歳児相談のあと、カンファレンスからなかなか戻らない先輩や同僚保健師に気づき、やっぱりそうだよな、と思った。

先輩保健師から療育相談を受けてみないかと優しく丁寧にもちかけられたが、素直に受け入れるのは難しかった。
陽は、明るくて賢くて可愛くて好奇心旺盛な子なのに。そう思って、涙をこらえた。
下を向いて「はい。ありがとうございます。」としか言えなかった。

後日、同期の保健師が「分かってるよね」と言ったときは、涙があふれた。
私は自分のタイミングで受け入れたかった。求められて受け入れるのは不本意だった。
彼女にその気持ちを泣きながら打ち明けた。

親が子の障害を受け入れられず、子どもが苦しい思いをしている事例は多い。
受容していないから、定型発達の子(発達障害のない子)のように振る舞うことを求めて、子どもを苦しめるからだ。それは、肢体不自由児に歩くことを求めたり、視覚障害児に文字を読め、点字を読むなと言っているのと同じだが、発達障害が分かりにくい障害であるゆえ、強要している側が自らの過ちに気づきにくい。
泣いたのを機に、否認する気持ちは反転し、陽のために受け入れるべきだと覚悟が決まった。

受け入れる前は、障害があると認めたら、この子のこれからの人生に大変なことがたくさん待ち構えていると認めなくてはならない。それは嫌だ。そう考えていたような気がする。

私は陽を守るために、学んだ。発達障害の本をたくさん買って読んだ。旅費をかけて研修にも行った。明るい未来を見つけようと必死だった。
そして、1.2年が経つと大変でも滋味深い人生が送れそうだ、やりようはある、と思えるようになった。

一方夫は、突然私から言われた。
「陽は発達障害かもしれない。保健師さんから療育相談を勧められた。療育センターに予約をとろうと思う。」

「うちのまちの保健師に何が分かるんだ。レッテルを貼ることに何の意味がある。」彼は怒っていた。

受け入れたとはいえ余裕がなかった私は、打ち明けて、夫に重い荷物を半分持って欲しいと考えていたのだろう。
寝耳に水の彼に突然伝えても難しいことは、今なら分かるのに。
レッテルが気になるから、その先がみえない気持ちも。

陽が寝た後で何日か言い合いをした。2人とも陽を愛するがゆえの言い合いだった。
何故分かってくれないのだろう。
夫を憎らしいと思った。
きっと、彼も。

「レッテルを貼ることが目的じゃない。この子はきっと育てるのが難しい子だ。大事に育てたい。だから、色んな人の意見がききたい。そのための受診だ。」
私がそう言えるようになったのは、しばらくたってからだった。

夫は、渋々受診を認め同行した。

足並みを揃える努力が足りなかった。
仕事と家事と子育て、発達障害に関する勉強に追われ、彼の戸惑いや憤りに寄り添うことができなかった。
話しても喧嘩になるならと、話し合いを選択しなくなっていた。

受診の時に、明確に障害名を告げられなかったことも、夫に希望を持たせたようだった。
療育センターには、年1回受診を続けた。
主治医から予約を促され、私も希望してのことだった。今は安定しているが、経過観察が必要な子ということだと私は認識していたが、彼はどう思っていたのだろう。そんなことも聞けないような関係になっていたのだと、今は分かる。

最初は、発達障害について「性格の悪い奴のことだろ」と言っていた夫も、陽の成長をみたり、同級生と比較したり、自分の理想の父子関係を表現し抵抗されるうちに、少しずつ変わっていった。

子どもが1人だったこともあってか、運動会や日曜参観日、学習発表会、親子レクには積極的に参加していたし、私の仕事が遅くなったり、出張があるときは、宿題もよくみてくれた。

陽は、私を安心できる甘える相手、夫を楽しく遊んでくれる相手、と感じているようだった。


次に私達が言い争ったのは、陽の小学校入学時の特別支援学級設置を希望するか否かの判断の時だった。

私も正直迷った。特別支援学級じゃなく、支援員でもいいのではないか、と。
この時も同期の保健師が「うちのまちでは、資格や経験のない人が支援員をするんだよ。陽を任せることができる?」と言ってくれた。

受容できていたつもりでも、自分にまだ否認や取引するような気持ちが残っていたんだと気づかされた。
特別支援学級を選択するのは、地域に息子の障害をオープンにすることだ。それにより、彼がいじめられたり、偏見や差別を受けるリスクもゼロではない。

だけど、親が世間体を気にして、子どものためにと普通学級を選択したのち、子ども1人に負担が強いられる現実も知っていた。

それは嫌だ。

陽だけが辛い思いをするのは、おかしい。彼は彼らしく過ごしていい。恥ずかしいことじゃないのに、隠す必要はない。偏見や差別から守るなら、堂々としていた方がいい。

田舎だから特別支援学級の設置を希望すると、担任の先生が陽だけを受け持ってくれる。親学級との交流ももちろんある。
陽の居場所や味方が増えるかもしれない。

私の気持ちは固まった。

まず義母にそのことを伝えた。義母は「それがいいと思う」と言った。療育センター受診を告げた3年前には「考えすぎだよ。陽は大丈夫。」と言っていたが、毎日幼稚園にお迎えに行ったり、日々世話をしてくれていたから、配慮が必要な子だと感じてくれるようになったのだろう。

以前、引きこもりの人を無理矢理外に出す「引き出し屋」を特集した番組を義母と義弟と見たときに、泣き叫ぶ引きこもりの人を見ながら「陽にこんな思いをさせたくないから、受診させてる。」と話した。義母は「そうだね。」とその時にも言ってくれた。

義父は、まだ戸惑っているようだった。「陽くんは、ゆっくりだけど成長していくと思うんだ。大丈夫だと思うよ。大丈夫だと思うんだけどな。・・・だけど、ママがそうしたいと思うなら、お父さんはそれを受け入れるよ。」
義父は、こう言ってくれた数ヶ月後に大動脈瘤が破裂して急死してしまった。
陽の入学式には、いなかった。
「介護もさせてくれないで。カッコつけすぎだよ。もっと色んなことを話したかったのに。」と泣きながら遺影に言った。
義父が悩みながらかけてくれた言葉は、今も私の宝物だ。

きっと受け入れてくれる2人に話をして、その後夫に話をした。外堀を埋めて、本丸に挑んだ。
そんな段取りを踏んでいることからも、離婚へのカウントダウンは進んでいたんだろう。

夫はこう言って、特別支援学級に所属させることを拒んだ。
「また障害って言葉をつかう。俺だって、これでも勉強はしてる。お前はすぐ、陽を分けようとする。」

「じゃあ、あなたが決めればいいよ。私も、じじもばばも考えは一緒だよ。陽だけが大変な思いをして、親は何もしなくていいの?そんなのおかしいよ。」そう言い返した。

幼稚園の先生や保健師たちは、我が家の判断がどうなるか心配してくれた。

特別支援学級設置希望を教育委員会に伝える期限が近づいていた。

私は、夫の元上司で教育委員会事務局長に夫と話をしてもらえないかと頼んだ。
教育委員会は、私や保健師、幼稚園教諭の考えを知っているし、夫が尊敬している人と話できれば、彼が気持ちを整理できると考えたからだ。

数日後、「今日局長と話をしてくる」と夫が言った。

そして、話し合いが終わったと思われる夕方、夫から電話がかかってきた。
「局長に特別支援学級で頼んだから。・・・それと、今日は野球部の納会だから遅くなるわ。」
清々しいようなホッとしたような声だった。

「この人も悩んでたんだな。」と感じた。

その日の夜、陽が寝ついた後、1人のリビングで結婚式のDVDを見た。
夫が声を詰まらせながら、参列者に感謝を伝える場面が見たかった。

「皆さんのおかげで、今日の日を無事迎えることができました。これからも2人で一歩一歩歩いて行きたいと思います。」
家族としてステップアップできたと感じた。嬉しかった。

夫はあの日、何を感じていたんだろう。私の考えに折れたわけではないと思っていたけど、納得できない気持ちは、何%か残っていたのだろうか。

受容は難しい。
有名な『死ぬ瞬間』を書いたキュブラー・ロスは、癌で亡くなった。
ロスは受容過程を「否認」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」という、5つの心理的段階としていたが、死ぬ前までに受容の段階には至らなかったそうだ。

時間や愛が必要だ。
偏見や自分の価値観も大きく影響する。
知識や経験、観察力、洞察力が役にたつ。
そして、誰かに強要されたり、急かされたりするものではない。
自分で獲得するものだ。
話を聴いて、頭を整理したり、感想を伝えてくれる人が力になる。
受容するまでは辛くて先が見えず、受容した瞬間に覚悟が決まり力が湧いてくる。
見えるものも大きく変わる。

陽が受容した経緯はまた今度書こうと思う。
おかんの方のじじばばの受容もまた色々あったしね。

こんなに長くなったのに、読んでくれてありがとう。

こんな経験は、なかなかできないし、人生を堪能させてもらったなと感じるよ。
私にとっては、これを経験したことも生きる意味だったと言える。

陽、ありがとう。
おかんの子どもとして、おとんの子どもとして、じじばばの孫として生まれてきてくれて。

みんな、あなたのおかげでたくさんのことを学んだ。
たくさんの感情を味わった。
きっと、前より人に優しくなったよ。

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