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わたしの読書遍歴 活字編


昨日の記事では私の読書に対するモチベーションをエンジンギアに例えて紹介した。

今日は私がこれまでにどんな活字本を読んできたのかについてご紹介したい。




小学生中学生のころは小説をたくさん読んだ。
たくさんといってもシリーズものを全部踏破したことはないけれど結構読んでた。

私は本当に嫌な性格をした子どもで、ちょっとだけ物覚えがいいだけにもかかわらず自分は勉強ができると勘違いしていた。
それどころか6年間ほぼ同じ顔ぶれで過ごしたクラスのメンバーをうっすら下に見ていたところがあって大変にろくでもない子どもだったと思う。

なのでたまに「君たちにはとてもじゃないけれど付き合えないよ、とほほ」といった具合に周囲に壁を作って高みの見物をしていた。

そうやって自分の世界に入り込みたいときこそ、本の世界に逃げ込むのが一番具合が良かったのだ。
「本の中にはわたしの周りの人たちよりずっと夢があって賢いひとたちがいる」
「こんな田舎だけが世界じゃない、もっといろんな暮らしや考え方の人がいる」
と読書の世界で独りよがりになってはないものねだりばかりしていた。


ただ、買ってもらった本は帰りの車に乗った瞬間すぐに目を通すし、小学校高学年の頃になると学校の休み時間どころか給食の「いただきます」前の時間だとか、あらゆる隙間時間で本を読んでいた。

わがままな子供だったので本屋に寄らせてもらえない時や本を買ってもらえない時は帰りの車の中でずっと機嫌を悪くしていた。

あくまでも当社比で他社比較するとみなさんには遥かに劣るのだろうが、割と子供時代の記憶は何かを読んでいた記憶で埋まっている。

活字本だと今では読まない小説ばかりを読んだ。
たしか、最初に夢中になったのははやみねかおる先生の「夢水清志郎シリーズ」だ。
夢水は文系の学者で、いちど本を読み出すと食事も睡眠も忘れてしまい、挙げ句の果てには体にカビが生える。
それぐらい本に夢中になれるだなんてうらやましいと憧れの対象だったのを覚えている。

難しかったけど印象的なのは宮部みゆき先生で、友達がいつも読んでいたのを貸してもらった覚えがある。
最初はとっつきにくいけど気がついたら夢中でページを捲る手が止まらないのだ。
「レベル7」や「誰か」を読んだのも覚えているけど「ブレイブ・ストーリー」もはちゃめちゃにすごかった。

中学生になるとライトノベルことラノベが流行していて、乙一先生の作品だとかキノの旅シリーズだとかをたくさん読んだ。
働かないことに弊害があるだなんてキノの旅を読むまで知り得ないことだった。
乙一の平面いぬを何度か読み返してその度に泣いていた。

キノの旅は図書委員になった時にしれっとリクエストに記入して学校の図書館に入れてもらった覚えがある。

そして小学校から中学校にかけて、私の読書体験に欠かせないのがさくらももこ先生のエッセイだ。
先生のエッセイを読むまで私は活字の本はためになることや涙を誘うことはあっても、人を笑わせることはできないと思い込んでいた。
だからこそ笑わずにはいられない文章との出会いが衝撃だった。

確か最初に読んだのは町の図書館にあった「さくら日和」だったと思う。
いきなり離婚の報告から始まったのでとても驚いたのを忘れられない。

それから私は作文を敬体ではなく文体で書くようになった。
小学生だったし文才があったわけではないので「適当に書くんじゃない」と各方面からお叱りの声をもらったのを覚えている。


高校生の頃は電車で1時間ぐらいかかる学校に通っていたので小テストの勉強がない時、通学時間に伊坂幸太郎先生や三浦しをん先生の本を読んでいた。
伊坂幸太郎先生のことは学校に行く前見ていためざましテレビのブックランキングで知った。
たしかその時ランクインしていたのは「死神の精度」という小説で、若者心をくすぐるタイトルに惹かれてすぐ読んだ。
いくつもの短編が折り重なった先の伏線回収があまりにも美しくて感動した。

三浦しをん先生はエッセイが面白くて、とあるエピソードは電車の中で読んで笑いをどうしてもこらえることができず、20分ぐらい笑いっぱなしになってしまったのを覚えている。


そんなに小説漬けだったのに、大学に入ってからは小説はおろか、本を読むことも少なくなった。
実家を出て一人暮らしを始め、空きコマの時間はサークル活動や自分と同じように実家を離れた友人たちと談笑することに明け暮れたし、家に帰ったら自分のパソコンがあるのでインターネットとSNSに夢中になった。

講義やゼミの課題で本を読むことはあったが専門性の高い研究本ばかりだ。
よくわからない内容の本を読んではレジュメにまとめ提出することに追われて読んでいたのでたのしいものではなかった。

娯楽のための読書、能動的な読書がすっかり遠ざかっていた。


その後色々あって(いつか書きます)実家に帰ってきたのだが本当に活字の本が読めなくなった。

漫画も買ってもらってそのまま読まないで置いておくことが増え、それに気がついた時はかつて貪る様に本を読んでいた自分はもういないのだと悲しくなった。

その頃はちょうどスマホを持ち始めた頃で、ちょっとした時間をつぶすのならスマホで簡単に事足りてしまうのもあり、読書は私にとってただの暇つぶしの時間だったのかもしれないなと思うとなんだか寂しかった。


それでも図書館や書店に行くのはわくわくしたし楽しかった。
新しい本を見つけて手に入れた時は喜んだ。
借りても読めないことの方がまだ多いけれど、両手いっぱい、かばんいっぱいに本を携えると帰り道もすこし気分が晴れやかになる。

それは本が私にとって「今自分がいる場所とは違う世界へ導く入り口」であり「誰かの心を覗ける場所」だからなのだと思う。

今ある環境が苦しい時、誰にも助けを求められないとき、本はいつでも私のよすがだった。
インターネットもなかった世界でも本を開くだけで今いる場所とは違う場所に身を委ねることができた。

自分で表紙を開くことが少なくなったとしても、いつでもどこかへ行って誰かを知ることができる、という安心の証が私に取っての「読書」なのだ。


漫画遍歴についてはまた今度。

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