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マルメロ

幼い頃の私はとにかく乗り物酔いする子どもであった。

我が家はしばしば車で親戚の家や商業施設、観光地に出かける機会が多かった。
週末になると毎週とまでは言わないが月に2〜3回ほどはどこかへ出かけていたのではないかと思う。
子どもを放っていくわけにはいかないので私も連れて行かれるのだが、車に乗るたびに気分を悪くして嘔吐を繰り返していた。

嘔吐に前触れはない。
「今日は大丈夫」と思っても気がついたら口元から気持ち悪くなっていて、胃の中のものを吐き出してしまう。
その予兆を感じるたびに私は「ちょっと止めて」と叫んでは草だらけの道端でえづいてゲロを吐いた。
そう言える時はまだマシな時で、車の中で戻してしまう時もしょっちゅうだった。

昼食に立ち寄ったマクドナルドの出入り口で嘔吐してしまったこともある。
親も今日は私が何も言わないので大丈夫そうだと思っていたのに突如そんなことになったので驚いていた。
私自身もまさか吐くとは思っていなかったので玄関マットの上に吐瀉物がびちゃびちゃと落ちていくのを涙目で見て自分で自分にびっくりしていた。

ただ、その後はケロっとしたものでハンバーガーを元気に食べていたそうだ。
今でも親から語りぐさにされる。


今はまったく乗り物酔いしなくなったのは三半規管が発達したのもあるけれど、車の匂いがなくなったのが大きいと思う。
当時、車を持っていたのは祖父と父だ。

父の車の匂いはあまり覚えていないけれど、当時の父はしばしばタバコを吸っていたので煙の匂いがあまり良くなかったのだろう。

はっきり覚えていて、絶対にこれが原因だとわかっていたのは祖父の車の方だった。
祖父の趣味の一つに魚釣りがあった。
しばしば車で30分ほどの漁港へ魚釣りに行っては釣果をクーラーボックスに詰めて持ち帰ってきていた。
その時にクーラーボックスの隙間から漏れ出た魚の生臭い匂いと潮の香りが車の中にしっかりと染み付いていたのだ。

私がそのことに気がついて、言語化できるようになったのは小学校中学年のころだったと思う。
私としても不必要に嘔吐を繰り返してその度に母や祖母の手を煩わせたいわけではなかったので、原因について訴えておく必要はあると幼いながらに考え家族に伝えることにした。

祖父は我が家のヒエラルキーの頂点に君臨する人物だったが孫には甘かったので、私は臆することなく
「じっちゃんの車は魚臭くて気持ち悪い匂いがするからゲロが出るんだと思う」
と訴えた。
祖父や家族からは「そんなこと言うもんじゃない」と叱られたような気がする。
今でもそんな言い方することないじゃないかと思う。
ただ、当時はファブリーズやよく効く消臭剤もなかったので訴えられたところでどうすることもできなかったのだ。

ただ、かわいい孫の訴えはそれなりに祖父も気になったのだろう。
ある時祖父が運転する車の助手席に乗り込んだら、見たことのない黄色い果実が置かれているのを見つけた。
洋梨に形が似ているけど、見たことがない果物だった。

「これは何」と祖父に尋ねると「マルメロだ」とA県訛りの返事があった。

マルメロというのはカリンに似た果物の一種らしい。
洋梨に似た形をしている。

鼻を近づけて匂いを嗅ぐと濃くて甘い香りがした。
祖父なりに私のことを気遣っていい香りがするマルメロをどこかから仕入れてきたようだった。

祖父は愛想は良くないが私に甘い。
けれど今回のマルメロは甘さと言うよりは祖父なりに人を気遣う優しさのようなものを感じて私は嬉しかった。


ただ、悲しかったことが一つだけある。
マルメロの香りは素敵な香りだったが、決して消臭効果のあるものではなかったことだ。
車内は魚の生臭さとマルメロの濃厚な香りが混ざり合い、新たな悪臭を生み出してしまっていた。

私はその時も帰り道にゲロを吐いた。
でも、マルメロを捨てて欲しいと言うことはなかった。

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