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妥協って、すばらしいことだよ。

「正論おじさん」が話題になっているけれど。

子どものころぼくは、「正論クソガキ」だった。
ハンパに頭が良かった。
もちろん悪いことをして怒られたこともたくさんあったけれど、あのころの狭い価値観のなかで精いっぱいに張り巡らせた正義のアンテナを駆使してぼくは、納得のいかないこと、間違っていると思うことにたいして遠慮なく噛みついてきた。
クラスメイトにも、大人にも。
身体が大きくて運動神経も悪くなかったから、いじめにこそ遭わなかったけれど、だから友達はすくなかった。

世の中には、正しいことか、正しくないことしかない。

本気でそう思っていた。

ものごころついて、それが間違っていると知った。
知ったけれど、納得したわけではなかったから、そういう面ではそれなりに苦労した。
正しくないのに、正しい。
正しいのに、正しくない。
そんな矛盾と折り合いをつけることは、むずかしかった。

世の中って、そんなもんだ。

考えても仕方のない、これはどちらかというと真理みたいなものだと、ぼんやりとそう結論づけて生きてきた。
ぼく1人が考えたところで、どうにかなる問題じゃない。
十人十色。
考え方は、人それぞれ。

もちろん、2度目の成人式を間近に迎えようとしている今、ぼくはだから仕方ないと話を終わらせるつもりはない。
諦めないで、何が大切なことなのかを考える。

ありきたりの結論だけれども、それは、異なる立場をお互いが尊重していくこと。それしかない。

あなたはどうしたい?
ぼくは、こうしたい。
それならどうしようか?
じゃあ、そうしよう。

こんなシンプルなことしかないんだ。
だれかが自分の利益をすこしでも多く守ろうとする。
そのために正当な努力をしていたとしても、それが正しいと、みんなに思ってもらえるかは別問題。
だって、それが世の中なのだから。
みんなの思惑や利益や幸せや、ネガティブな感情もあわせて、もっともっともろもろのことが混ざりあったもの。
それが、世の中なのだから。

正論おじさんも、商店街の方々も。テレビの向こうにいるぼくらも。
だれが正しいのかなんて、ぼくにはわからない。
それでもそんな出来事が、こうして自分のアタマを刺激して、大したことではないかもしれないけれど、ひとつの気づきを与えてくれる。
利益の相反する人と遭遇したとき、譲りあって認め合う可能性を、提示することができる。
努力して、詰めて詰めて、最善と思われる落としどころを探ることができる。

それを妥協と呼ぶとき、すこしカッコ悪いとか、情けないとか、大人の事情だとか、ネガティブにとらえる人もいると思う。
でも、全然そんなことない。
妥協することは、勇気がいることだし、ストレスがかかることだし。
それでも妥協することができるのは、とってもえらいんだ。
だからぼくは、声を大にして言う。


妥協って、すばらしいことだよ。


いろんなことに、妥協しよう。
今まで見えなかった、たくさんの人たちの考え、思い。
そういったものに、きっとより気づけるようになる。





<おわりに>
昨日のnoteは、ご心配、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。
なかなか凹みましたが、すてきな言葉をかけてくださったKojiさんぐえさんはるさんはじめ、読んでいただき、温かく見守ってくださったすべての方に感謝します。
何かお返ししたいけれど、ぼくにできることはここで正直な文章を書きつづけることだけだと思うので、ぼくはそれをがんばりたいと思います。
ほんとうに、ありがとうございます。





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