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昼食は作業(?)

いつしか、「昼食はもはや作業なのでは?」と思うようになった。

食事は楽しむものだと思い込んでいた。
そういう魔法が、かかっていただけだったのかもしれない。

現場仕事がない日の昼食は、与えられた小さな箱の中で、
テーブルを社員たちで囲んでは、
まるで家族団欒かのように食事を共にした。

お昼ご飯の時間(大体12時半くらい)が近づくと、
お腹を空かせた先輩が、
「お昼どうしますか?」と尋ねてやって来る。

そして、「何か買ってきますよ。」とその先輩が口にする。

でもそれは、
「いや、私が買いに行きますよ〜」
というセリフが欲しいが為の口実に過ぎなかった。

心底、面倒臭い。

そういう、気付いて欲しい、
やってほしい、というオーラを放つ不器用お◯さんが
この業界には特に多かった。

でも、いちいち気にしていたらキリが無かった。
だからもういっそのこと割り切ってしまって(諦めて)、
今は、そういう面倒臭い人たちの相手をする知識やスキルを学ぶ時期だと、
そう捉えることにしたのだ。
そうした方が、気が楽だった。

そしてまた、「暗黙の了解」が多数存在する世界線であり、
与えられた業務外でも気を張り、気を配り、
そして気を利かせなければならなかった。

だから非常に気疲れし、窮屈さを感じる日々なのである。
そんな現状を生きている。

社員でご飯を食べに行く時、
仮に私が急いで食べたとしても、
追いつけないのだ。

元々ご飯を食べるのがゆっくりな私には、
ダッシュ飯は向いていないし、
かなりキツイものだった。

いつしか味わうという感覚も忘れてしまった気がする。

だから、もはや「作業」なのだ。

「ゆっくり食べていいよ。」と言われたとしても、
先に食べ終わった先輩を目の前にしたら、
それはもう待たせてしまっている事実であることには変わりがないため、
私は少し急足で食事を進めるのだ。

あ、これ、幸せじゃないな。と唐突に気付く。

ゆっくり食べていいよって、
私が食べるのゆっくりなことを知っているならば、
本当の優しさを遣ってくれるのならば、
私のペースに合わせるか、
ゆっくり食べるか、
してくれるもんじゃないだろうか。
と最近は疑問に思う。

求めるだけ、
期待するだけ、

無駄ですね。

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