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就活に惑った大学生が見つけた 自力でその瞬間、幸せになる方法

ヨガが好きなワケは、ヨガすれば瞬間、幸せになれるから。ホントだよ?インド古代〜の2000年の歴史が物語っているし、近年は理論の裏付けも進んでいる。


ヨガするようになったきっかけ、あまり覚えていなかった。体を柔らかくしたかった、とか、激務で体調崩して、といった強烈な原体験がなかったから。
ただ最近ふと思い至ることがあった。

社会に放り出される重みと孤独


最初にヨガを本格的にしたのは、大学4年生の頃だ。
就活がひと段落し、就職先が決まり、とるべき単位も残すところわずかで、ゼミの卒論執筆以外はあと数ヶ月の大学生活を自由に過ごせる時期。
知り合いがインストラクターをしていた縁で、大学があった高田馬場駅近くのホットヨガに通い倒した。ムッとする室温の中で肌寒い季節に汗をこってりかき、最後のシャバーサナ(屍のポーズ)では寝落ちすることもあった。気付いたら先生と生徒さんが心配そうに覗き込んでいた光景をぼんやり覚えている。

週に2回ペースを2、3ヶ月だったろうか。
割引チケットが尽きるまでだった為、短期集中ではあったが、あれだけコンスタントに通えたのは、毎回のヨガが至福だったからだ。
社会も知らない、大きな悩みも経験したことのない大学生にとっての至福な体験。
その正体は何だったのか。

15年以上経った今想像すると、社会に放り出されるのを目前にして、自分の人生を背負わなければならないという重みや、自分は1人なんだという孤独から開放される時間だったのではないか、と。
あの時、そんな大層な重圧や孤独に苛まれて病んでいた、ということではない。

心が波風立った時のイカリ


全く自覚していないし、言語化もできていなかった。
ただ振り返ると思う。
大学生活後半戦になっても、卒業して何をしたらいいのか、何をしたいのか、よく見えていなかった。もっと言えば、見定めるためのアクションを起こせていなかったし、起こす必要性に気づけてなかった。呑気なもので呆れてしまう。

その為、就活はうまくいったとは言い難い。
同じだと思っていた周囲は、案外、世の中や自分を知っていて、駒を前に進めていた。

そんな大学生が、ヨガを通して、ごちゃごちゃした思考から解放されて無になれる、自分に寛ぐことができ、幸せを感じることができる、と知った。何かあったらヨガに戻って来ればいい、と気付いたのは、あの時だったのではないか。ヨガは心が波風立った時のイカリになる、と体で理解した。その時、ヨガが生きる上でのHomeになった。

人生の目的は個人的で内向き


その後、新卒で就職した新聞社で、悩むことは多かった。
そんな時は何度となく、自分はどうしたいのか、自分の人生の目的を問うた。
その時書き出された言葉は、「リラックス」だった、と覚えている。
きっと無意識にヨガの時に感じた心地よさや幸せを想起してのことだったのだろう。

人生の目的と言えば、世の中を良くする、家族と幸せに過ごす、など社会や他者を介在したテーマが出てくる方がいるだろう。
私の人生のゴール、生きる目的は、かなり個人的で、主観に基づくもので、内向きだ。
私の人生のゴールは、寛ぐことだ。
体の余計な力が抜けていて、すっくと立ち、ベタベタと歩かず、まるで浮遊しているように足取りは軽い。
内面は穏やかで、気持ちのゆとりがあり、微かな微笑みをたたえている。ノンシャラン。
醸し出す雰囲気に、周囲には、気品がある、と映るかもしれない。

至高のリラックスを求めて


自分本位で本当に申し訳ない気持ちになる。
最上のリラックス状態を目指したいし、その過程そのものにゆったりと寛ぎたい。
寛ぐというのは、軟体動物のように骨抜きになることではない。
緊張と弛緩のバランスだ。それが正にヨガ。最低限の骨や筋肉を使いながら、不要な力は全て抜く。
悩みや妬み、そねみ、心を硬直させる考えを抱えていては体は強張り、リラックスできない。安心できない住居も同じく。

人間関係や経済状況、住環境、生活を取り巻く要素をバランスよくメンテナンスして、心身が寛げるように配慮すること。
自分本位な目的からスタートしているが、結果的に周囲を含めて幸せを育むことが、自分のゴールに返ってくる。結果は同じでも、矢印の向きと順番が大事なのだ。

私の魂、プルシャ(真我、アートマン)は至高のリラックスを求めて今世を生きている。
こう締めたらヨギーニらしいかな。

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