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いるように見える「他人」は、なんのためにいるのか

散らかった心を落ち着けるために書いています。

私は仏教を学んでいて、そうすると「固定のものは何もないよ、自分もあの人も刹那ごとに別モノだよ、自分がいるというのがそもそも錯覚だよ」という話を聞きます。

自我の感覚は末那識という深層意識のはたらきで、Aさんが今日も同じAさんて思うのは阿頼耶識という深層意識に印象や気分がストックされてるから。唯識思想においてはそう説明されます。何かを見ている自分と、見ている対象は、元々ひとつであることも学びました。

じゃあ何も、貴賤も敵味方も、上下関係もない。それをふまえて穏やかな生活ができる…はずでしたが、難しいです。錯覚(煩悩)のパワフルさは変わりなく、私を惑わせます。って今、誰が書いてるのこれ?

なんで私はこうなの、なんであなたはそうなの、っていう、問うても仕方ないことへの仏教的答えはこうです。「この刹那、新しくうまれた状態がそうだからです」「もろもろの要素が関わり合ってそうなってます」で、もろもろの要素や条件が何なのかは、知ることができないそうです。だから、仏教を学ぶと、色々なことに諦めがつきます。諦めると身軽になり、生きやすくなります。

私は、生きやすくなることよりも、アア~諦められない!って騒ぐことを大事にしてるかもしれない、と、人間関係の中でふと気づきました(この気づきも怪しいのですが)。それですごく恥ずかしくなりました。好きで悩んでいながら、執着を満喫していながら、執着やめたいとか泣くの、自分見えてなさすぎてイタい人です。イタすぎる部分は一人では直視できないから、他人という形で現れた別の自分にきっかけをもらって、見ていくのかもしれません。

仏教を学んだからって、執着あるよね人間だもの☆という寛容さを得られるわけではないのだなあと痛感しています。どんな性格だろうが出たとこ勝負だから仕方ない、と知れたのは良かったです。あと、私は仏教ネタを書くときに主観まみれなのは厳禁、と思っていたけど(実際そう聞きました)、その縛りだと苦しいです。好きなところを、好きなように解釈するしかむり。世界を楽しむツールとして、使っていきたい。

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