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プロほど謙虚

こないだ何かの学問の動画で
「研究者は、自分が間違っていること自体をおそれていない」
という言葉があり、感動しました。

どんな研究も自分だけで完成することは少なく、仮説や実験のやり方が間違っていたとしても、それが誰かの踏み台になってより良い議論に発展したりするので、今わかる範囲でやればOK、みたいな話でした。

せっかく何か打ち出すなら精緻に、つっこみどころのないように、って自説を抱え込んで調整を続けるのが研究者のイメージでしたが、自分が評価されることよりも研究が豊かになることを重視し、後に続く人を信じて投げれるって、めっちゃかっこいいと思いました。

以前、レヴィ=ストロースの『構造・神話・労働』という本に「民族学者の仕事は、偏見をもって見ながら、自分に偏見があること、自分の偏見を自覚したこと、自分の偏見が判断に影響を与えていること、だからその判断を修正しなくてはならないことを、一刻一刻と学んでゆくことなのです」と書いてあるのを見た時、「なんて謙虚な専門家!」と感銘を受けました。私は専門家というものを ”もう完璧だから変わる必要のない人" みたいに勘違いしていました。でも全然、仕事に集中している先生は、自身のことを完璧とか特別とか思ってなくて、ひたすらに未完成の真っ只中にいる。

『ちっちゃな科学』という本の中で、生物学者の福岡伸一先生は、次のように語っています。

「どのような科学的主張もあくまで仮説であり、反証されない限りにおいてのみ有効だということにすぎない。ほとんどの科学的主張は、やがて反証によって葬られるか、あるいは修正されていきます。おのずと謙虚にならざるをえません。」

科学的な根拠がある=揺るぎない真実!誰もが納得すべき!って思いがちやけど、一時的に断言しているだけなのだと学びました。

「世界をどこまで細かく切り取って分類しても、全体を知ることはできません。本当の世界は絶えず揺れ動き、一瞬たりとも同じ姿でいることはないからです。」

顕微鏡とかない、何もわからないところから出発し、世界を仮に見ながら発展してきたのが我々の科学だそうです。決して万能ではないと自覚しながらベストを尽くすって、難しいことだと思います。常に自分の限界を突きつけられながらやるって、苦しい。でも、世界のありように近づきたくて、その計画に自分なりに関わっていることがもう喜び、みたいな部分があるように感じました。


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