見出し画像

因縁生の私たち

仏教に「因縁生」という言葉があります。

いろいろな要素が関わり合って仮に成立する、という意味で「すべては因縁生」と言われています。

これは「私がいてあなたがいて助け合って生きている」という話よりは、そもそも私という存在が、何らかの条件が揃って私と私以外を見分ける認識が起こることで発生する、という話で、あなたという存在も、私が一時的に存在する状況において「あなた」と呼ぶ、そういう現象があるだけ、みたいな話です。

私は最初この話を聞いたとき「えっじゃあ個人ってナニ?無いってこと?」と混乱しました。外界から切り離された、独立した自分があると思っていたからです。だからこそ「自力で頑張ろう」とかのやる気が起こるし、誰々さんと仲良くなれた♪とかの喜びも起こる。この自分を始めすべてのものが超絶かりそめで、すべてのものが「そう見えるだけ」だとしたら、なんか虚しくない?愛も金も、手に入れた気になってるだけとか。

しかし一方で、この因縁生の考え方は、救いをもたらすようにも感じます。今のこの状況を仮に成立させている要因、条件は、不可知とされています。どれだけ頭フル回転で自己分析しても、あるいは深く瞑想しても、知り得ない。私たちは自分自身に対して無力。じゃあ何か病気になったとか、とんでもない失敗をしたとか、なんとも無駄に生きているとかで、自分を責める必要はなくなります。自分を責めるのは逆に驕りであるとすら言える。だってどうしようもないことに責任とろうとするって、すごい自信。

ある生物学の先生が「どれだけ細胞を詳細に見ていっても、そこに自分はいない」と言っているのを聞いたことがあります。本当にその通りで、心臓が私?脳みそが私?脳みそが起こす興奮が私?感情が私?考えてみると「私」にぴったり相当する実体はない。でもなんか、そういうパーツが集まって、自意識のようなものが生まれて、私という仮の存在がいる。これって不思議だなあと思います。この不思議さは、仮の存在であることの虚しさを上回るように思います。あまりにも謎すぎて逆に勇気がわいてくる。

そんなわけで、習いたてで、説明できる気がしないことを、それでも良い話だと思ったので書いてみました。



ご予約可能日更新しました




この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?