見出し画像

たった一人で扉を開ける(1)

日本でいつからちゃんとお金が使われだしたか。考えてみますと多分、室町時代じゃないですかね。
「明銭」というのがありましたよね。
清盛の時代は宋銭でも貿易商人や一部の貴族に「お金」は浸透していたのですが、商品経済が発達してきて、民衆レベルで商品取引の対価が必要になってきた。明のお金でもなんでも必要に迫られて、使っちゃえという感じだと思います。実はそれより700年も前に日本では「和同開珎」というお金が作られていましたが、作ってはみたものの、皆使い方知らなかったもので、宝物として家に置いておいたそうです。使うものじゃないなかった。

お金というのはそれ自体ほとんど価値のない「約束事」みたいなものですから、本格的に流通させるには権力の裏打ち(=信用)がなくてはいけない。室町時代というのはなんとも不明瞭な時代で、「小さな政府」室町幕府はそれほどの権力を確立していない。宋のお金の方が信用あるのもわかります。

状況を変えたのはまたしてもこの男、織田信長です。彼は尾張に生まれ、バカ呼ばわりされ、そのへんのガキどもと街でうろついているうちに商品経済が刻々とうごめく姿を直に感じとって育ったのでしょうか、経済に対する考え方が他の戦国武将と全く違っていた。
室町時代の評価は政治主体で教える日本の教育ではわかりづらいのですが、農業の生産性が飛躍的にあがり、政治的には分断されていても流通経済が全国をつなぎはじめた時代です。
信長は自分の支配地域を広げる中で、そのうごめく経済を後押ししはじめた。岐阜などの都市部で「楽市楽座」という自由市場を行い、商品さえもってくれば好きに商売させた。自由競争ですから需要と供給で価格も決まる。

洛中洛外図(上杉本):都市の反映がわかる図屏風。織田信長が上杉に媚びを売って作ったと言われてますね。

実はそれまでの支配者には庶民のお金を税金として搾取するという感覚はあっても、そういう「市場を育てる」感覚はない。それどころか庶民にもなければ、当の信長の家臣にさえなかったと思います。
ただ結果、商売人は商売しやすいから、自ずと岐阜を目指すようになり、全国の物資が集まり、お金も信用の高い織田信長の元に集まります。

※この感覚が日本において如何に稀有かは、今の日本を見てもわかります。現代の総理大臣や財務省にもないでしょうね。あれほどの競争社会の勝者であるエリート集団の財務省に、マクロ経済をみる目と「市場を育てる」感覚がないというのは日本の秀才教育が根本的に間違っていることを指し示していますよね。

「財務省の犬」といわれる岸田首相。彼も秀才、日本経済を操る財務省も飛び切りのエリート集団。でもほとんどの財務官僚は法学部出身、経済のことはわからないというのが日本の悲惨。
大阪における楽市楽座の様子。税金の搾取でなく、商取引を誘発させることでその利益の分け前をとる信長のやり方は、秀吉に引き継がれ、家康はわからなかったので手を付けず大阪の機能を温存した。そして、明治・大正・昭和・平成。信長のビジョンはこの日本では定着しなかった。

後年、信長が京を中心とした日本の中央部分で一度に7から8つの敵を同時に相手できたのも、まさにこの経済力の賜物で、「戦国ダービー」という視点からみれば、彼以外は勝者になりえなかったと思います。(続く)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?