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「ちょっと悔しい夏の思い出」

 中学1年のとき、夏休みの自由課題として昆虫採集を行なった。昆虫図鑑のページを何度となくめくっているうちに、ある項目に目が留まるようになった。

 ー アゲハモドキ ー

 姿はジャコウアゲハにそっくりなのだが、蝶ではなく蛾。ジャコウアゲハがウマノスズクサと呼ばれる毒草を食べることにより体に毒を蓄積し、鳥から嫌われてるので、その蝶に擬態することによって天敵から身を守っていると言われている。羽の紋様はそっくりだがやや小型。図鑑を繰り返し見ているうちに、そのまだ見ぬアゲハモドキを1度見たくて堪らなくなっていた。

 そしてある日、ついに竹藪の中をひらひらと飛ぶ、小さなアゲハを見たときには、胸が高鳴った。竹が密集している藪にの中だったので、入り込んで捕らえるなんて出来そうもない。ひらひらと遠ざかる姿をただ見送ることしかできなかった。

 次にその小さなアゲハを見たときは、追走可能な場所だったので、初回と同じように胸をドキドキさせながら、今度こそは逃してなるものかと執念で追いかけ、そしてついに補虫網の中に捕らえた。あの時の興奮は今でも忘れられない。

 帰宅後、三角紙から注意深く取り出し、よく観察してみると、それは期待していたアゲハモドキではなく、小型のクロアゲハだった。大きさが違うだけで、全く形は同じ。ときめきは一気にしぼみ、力ないため息と共に全身から力が抜けて行った。
 
 がっかりはしたが、大きさが違うのも珍しいのではないかと気を取り直し、標本箱の中に2つ並べて、夏休み明けに提出した。羽を傷めないように丁寧に展翅板で固定して作った標本の出来栄えには、かなり満足していた。
それを見た意地の悪い級友は、「買ったんでしょう」と冷ややかに笑った。裏を返せば、信じられないぐらい綺麗な仕上がり具合だったということ。だから、まともに相手はしなかった。

 提出した標本には、金賞・銀賞・銅賞などの評価が付けられたが、僕の提出したものは、意外にも選外の評価が下されてしまった。選外というのは、全体を見渡してもかなり稀なことだった。

 その後の授業で、理科の先生が提出された昆虫標本に対する講評をしたが、「同じ町で採取した、大きさの違う同種の虫を並べたもがあったが、同じ場所で大きさの違うものが捕れるわけがない。違う場所で取れた標本を買ったか、あるいは他所のコレクターと交換して入手したとしか考えられない。いずれにしても、自分で捕ったものではないだろう」と、薄笑いを浮かべながら言い放った。端正に仕上げた標本に、疑惑を向けられあっさりと切り捨てられたのは、中学生にとってなかなかに堪えがたい仕打ちだった。
 実名は伏せられていたが、誰のことを言っていたのか感づいている生徒が一人いた。例の「買ったんでしょう」と冷やかした男子だ。反論しても、先生の言葉を耳にした後では、どうにもならない。人間性を否定され蔑まれる悔しさと屈辱感は、中学生だった自分にとって、なかなかに耐え難いものだった。
 先生は一見理路整然と解説してみせたが、ひとつの町の中で大きさの違うものが採取できる場合もあり得るのは、本人が実体験したのだから間違いない。 
 当時住んでいたのは山際の町だった。日当たりの悪い藪の奥と、日当たりの良い庭先の木や竹の生い茂る森の陰では、日照時間や気温などの条件が異なることも考えられる。子どもだった当時は、反論もできなかったが、「時間を戻せるものならばその場に立って先生に反論したい」、そんな思いに駆られることが、その後長きに亙って何度もあった。それほど悔しかったのだ。
 今になって思うと、いきなりクラス全員の前で疑惑を語らずに、事前に本人を呼んで、事情を聞くぐらいのことをしてくれても良かったのではないかと思う。
 その後しばらくは、理科の先生に対しての憎々しい気持ちは薄れることがなく、いつも敵愾心を抱きながら授業に臨んでいた。逆にそれがプラスに作用したのかも知れない。2学期の理科の成績は上昇し、通知表に5段階評価の5が付いていた。1学期の成績とよほど印象が違ったらしく、テストの答案を返してもらうときに、 
 「君は前からいたか?」
 と言われたことを覚えている。
 失敬な・・・。あれだけの屈辱を与えておいて、覚えてないのかい?
  ** ** **
 あれから、55年の歳月が過ぎた。当事12歳だった自分が、当時の理科の先生の親ほどの年齢になっている。まさに光陰矢のごとしである。   
 当時の悔しさい思いも、今ではベールに包まれた淡い思い出と化している。

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