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【小品】花とシュワ




 アキが人生で最も重要視していることは『メシがうまければなんでもいい』というそれだけのことだった。
 十五のとき、家族が死んだ。全員、死んだ。以来アキはほとんどひとりで生きてきた。十八まで身を寄せていた親戚の家で初めて食べた昆布の佃煮が存外に美味いということに気が付いた彼女は、その心優しい三親等に気を使い余計な食費を使わせまいと昆布の佃煮を主たるおかずにして残りの成長期を賄ったのだが、就職し東京でひとり暮らしを始めたその日「いっちょ自炊でもしてみるかな」と立ち寄ったスーパーマーケットでその昆布の佃煮と同じものを見つけて彼女はその値段に驚愕した。
「高え……」
 思わず洩れた声が指すのは勿論値札に記載されたの1,520円である。こんなに小さいのに? ……とアキはそのパッケージを手に取り矯めつ眇めつしているうちに己の浅慮に初めて気付き、そして悔いた。これを大いに食らい成長し続けた三年間を思うと、世話をしてくれていた伯母に申し訳が立たなくて膝が抜けそうにもなる。もしかすると、と震える足を引き摺り精肉コーナーへ赴くと予感通りに肉が昆布より安くてとうとう彼女はその場にしゃがみ込んでしまった。彼女が率先して昆布を食らっていただけで食育はきちんと施され、すこしの意地悪もされることなく真心こめて育てて貰ったのに、金銭感覚が身に付けられなかった己が身を恥じ、トウコちゃんごめんね……と伯母の名を呼び謝罪をすると、彼女は立ち上がり手にしていた買い物カゴを元の位置に戻して店を出た。
 あたしには自炊は無理だ。
 そう悟った彼女は「いっちょ散策がてらメシ屋でも探しますかな」と春の下町をぐんぐん歩く。切り替えの早さが彼女の美徳だ。歩きながら彼女はおじいちゃんおばあちゃんの切り盛りする肉屋のコロッケが安いこと、雨樋のひしゃげたあの店でボリューミーな弁当がワンコイン以下で買えること、少し並ぶものの赤い屋根のパン屋では総菜パンが百円で買えることなど、メシに関することをどんどん学んだ。成人し二丁目で飲むようになった今でもそれらの店にはお世話になっている。エンゲル係数なんてものは深く考えたら負けであるし、メシが美味ければ決してそれは負けではく寧ろ勝ちである……そう思って生きることにしてからは気楽だった。
 そんな彼女にも親友ができた。ドレスコードが水着とかいうご機嫌なレズビアン限定イベントで、もの凄く不機嫌そうな顔をした女と出会い、親交を深めた。……とは言ってもアキの人生に於ける楽しみといえばメシくらいのものなので、外食に付き合って貰うということでしか彼女は己の好意を示すことができない。そのことについて、アキはいつも少しだけ「これでいいのか」と自問するのだが、ひとくちメシを食えばすぐに忘れる。都合の良すぎる頭をしているのはもしかしたらあの事故のせいかもな、と思ってみたりもするが、彼女は別に頭をぶつけてはいなかった。擦りむいただけだ。
 その女は不機嫌そうな顔をしているだけでじつのところ不機嫌ではないと、アキはすぐに悟った。メシを食えばその瞬間、ふわりと花の咲くような笑顔を見せる。その笑顔にアキの心はいつも不思議にシュワシュワとした。話し掛けたり話し始めたりすればすぐに仏頂面に戻るので、その可愛い笑顔を見るためにアキは「いただきます」から少しの間は黙るようになった。年下の女の前ではでかい声で「うめー!」とはすぐに言わない。大人ぶった抑揚をつけて「うめえ」と言う。
「……ように、してるんだわ。大人なんでね」
「え、『うめー!』っていつもうるさいよ」
「マジ?」
 思わずハイボールのジョッキを取り落しそうになりながら驚愕していると、女はでも、と続けた。
「アキが元気にうめーっていってるとこっちも元気になるよ」
 ここは上野はアメ横、高架下の小汚い居酒屋。しかし女の笑顔は大輪の薔薇のようだ。いや、薔薇だとケバケバしいか? でも花の名前なんて知らんしな。あの、あの、なんか絵に描くようなお花然とした、あの花……の感じ。名前は知らないけど。
「ねえ、カシラ食べたいんだけどアキは? 味は?」
「味噌!」
「オッケー。あとポテサラも欲しいなあ」
「唐揚げも頼んでな」
「焼き鳥も食ってんのに?」
「うん? なにか問題あるか?」
 アキはメシがうまければなんでもいい。でも女が一緒ならもっといい。いいメシを大切にして生きよう、とあの日ひとり生き残ってしまった彼女は心の内で誓うのだった。




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