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【小品】BAR COUNTER


 新宿は東口、ゴールデン街近く。キャパ200人の小さなライブハウスで私は『ドリンクのお姉さん』をやっている。バースペースはフロアの外だからライブは観られないけれど、カウンター自体はちょっとだけ本格的なものが設えてあり、皆がフロアに行っている間、私はこのバーの主になった気分。ヴィジュアル系バンドが主なお客さんだからか、隠し撮りをされ掲示板に晒されたこともあるけれど、火のないところには煙は立たず。直ぐに話題は別のものに流れて、火元が燻ったことすらない。別にバンドマンと繋がりたくてこの仕事をしている訳じゃないということを、理解できない人たちもいるということだ。
 バーテンとしての腕はへったくれもない。酒は好きだが知識として明るい訳でもないので、専らオーナーの作ったクリアファイルのレシピ本を見て作っている。それでもよく出るカシスオレンジやラムコーク、ジントニック程度なら見ないで作れるようになったけれど、これが高じて店を持つようになるようなことは生涯ないだろう。フードメニューは皿に移しただけのナッツやチョコ、ビーフジャーキー。何百歩と譲って調理と言える行為があるとしたらたまにバンドマンが持ち込んだ品のレンチンをする程度で、シンク横にあるコンロには掃除以外で触れたことがない。
 言ってしまえば、マイナーバンド向けのライブハウスだ。だからこそ、平日にも需要があるこの店に、私は店休日以外毎日いる。この街にいても許されるであろう唯一の免罪符みたいなネイルはバチバチ、本格的な飲食店では受け入れられないであろう凶器みたいな爪で、昼間はコールセンターの総務をしているのだが、その池袋のオフィスを16時に退社して、私は来る日も来る日も山手線で新宿へ向かうのだ。名ばかりのバーテンを、『ドリンクのお姉さん』をやるために。
 今日は木曜。マイナーバンドが5つばかり出演するイベントが開催されるからか服装の系統がバラバラの行列の脇を頭を下げながら通り抜け、『チケットもぎりのお兄さん』に挨拶をして事務所に入る。狭いライブハウスなので従業員用ロッカーに荷物を詰め込み、アナログなタイムカードを切る間にも背後には半裸の男や眉毛のない男が行き来して、お世辞にも居心地が良いとは言えないが、もう慣れた。手早く髪を纏めて、ライブハウスのロゴが入ったパーカーを羽織り、それから“STAFF”と記されたIDホルダーを首から下げ、カウンターの中へ出勤する。するとすぐに1バンド目の演者たちが生ビールを急かしてくるのに素早く対応し、それらが捌けた頃合いにバンドギャルたちが入場してくるので第二次ピークが発生する。しかし忙しくカシオレやラムコークを作り続けたのも束の間。矢張りマイナーバンド向け、短時間で一日のピークが過ぎ去る。
 鉄の扉の向こうから、重低音が漏れ聴こえてくる中、私はのんびりと出演待ちのバンドマンと雑談しながら酒を作る。耳を抜けていくだけのホワイトノイズとしての会話が幾度となく繰り返され、愛想良くしている訳でもないのに私の名前を知っている人がいることに対し一丁前の気色悪さを覚える。私の名誉を守るためにも『ドリンクのお姉さん』とだけ認識して欲しいというのは贅沢なのか。
 生ビール。ニンジャ・タートル。生ビール。ファジーネーブル。生ビール。ハイボール。生ビール。生樽が切れる。チョコレートはひと袋248円のやつを8粒入れる。カウンターに水のペットボトルを詰む。ドリンクチケット入れを整理する。カラコンが入らないと目を真っ赤にしながらうろつく彼がどのバンドのメンバーなのか、どの楽器を担当しているのかはたまたボーカルなのか、知る気がないから知らないでいる。樽交換をする。サーバーの注ぎ口から泡が飛び散る。頬に散る。
「うふふ、泡付いちゃってますよお」
 唐突に降ってきたフルーツリキュールみたいな声に顔を上げると、くるくるの茶髪のあの子がドリンクチケットを片手にカウンターに寄り掛かっていた。そのフリフリだけど落ち着いたラインの服が何系と呼ばれるのかを私は知らなくて、いつも後でググろうと思うのに、いつの間にかそのことを忘れてしまう。
「……サースティー・キャメルですか」
「うん、お願いしまあす」
 指どうしが触れ合わないようにしながらドリンクチケットを受け取り、カクテルを作り始める。彼女のハーフアップにされたふわふわの茶髪が揺れるのを視界の端に捉え、なにかきらめくもののようにその残像を大切にしたくて目を細めれば、凝縮された涙の膜が瞬きを抑えてその一瞬一瞬を最大限に引き延ばす。彼女がずっとここにいてくれたらいいのにと願うたび、一目惚れの浅はかさが胸に刺さって痛い。祈りのようなシェイク。一輪の花を差し出すつもりのシナモン。絶対に飲み口には触れないように。
 彼女のために覚えたカクテルを作り終えて顔を上げると、彼女の視線はひとりのバンドマンを向いていた。このヘアセット前の男のことを私は知ろうとして知っている。トリのバンドの上手ギター。Twitterフォロワー536人。34歳。個人スレ有。……死ねばいいのにと願うたび、一目惚れの浅はかさが胸に刺さって痛い。
 彼女の顔を見ないようにカクテルを置けば、所々聞き取れる不愉快なノイズに聴神経が向いてしまう。もっと掻き鳴らせよ、知らんバンドの知らんドラム・アンド・ベース。全部描き消してくれよ。なんでそんな自堕落な男にハイブランドの基礎化粧品なんてプレゼントしてるんだよ。……遅れて拭った頬の泡は、既に気化してベタつきを残すだけ。剥げたチークにこっそりと舌打ちをする。ほんとう、どうしてわたしはこんなよこしまな。
 去っていく高身長でもない、高学歴ではないはずの、高収入であろうはずもない男の背中を、彼女は可愛いまなざしでいつまでも追っている。私は彼女の名前がマナミだってことを知っているけれど、彼女から直接名乗られたことがない。ただの『ドリンクのお姉さん』である私は、あなたに触れたり、わかったりは、できない。
 可愛い顔で肩を竦めてサースティー・キャメルをちびちび飲むあなた。おひめさま。バーカウンターとフロアが分かれていて本当に良かった。もしあなたが演奏中の彼を見詰めている姿を直視したならば、私は気が狂ってそのまま死んでしまうだろう。
 トリのバンドを観に、誰も彼もがドアの向こう。私はひとりサースティー・キャメルを作る練習をする。もう見ないで作れるのに、まるで自分が極上の一品でも作れるみたいに、職人ぶって何度も何度も。カルーア、ホワイトラム、生クリーム、氷。シェイク。シェイク。クソが。シェイク。死んじまえ。シェイク。すっぴんブサイクだろお前。シェイク。シェイク。……ガーニッシュにシナモン。一気に飲み干し、手早くシェイカーとグラスを洗って証拠を隠滅する。恋の自棄酒は毎週苦い。
「死にたい……」
 呟いて、ビールサーバー脇に突っ伏す。顔しか知らない相手に恋だなんて生娘みたいな真似をアラサーにまでなってするとは思ってもみなかった。ねえあなた何歳なの。マナミっていうのは本名なの? あの男は推しなの恋なの繋がりなの。どうしてあなたは掲示板に晒されていないの。貢いでないよね性を売る真似はしていないよね昼職だよね。その服は何系っていうの。あなたは私のことすこしだけでも知ってるの?
「死にたい……」
 希死念慮のアンコール。不気味に鳴り響く手拍子は確実に私の心臓から響いている。オーディエンスは誰ひとりとしていない。いて欲しくもない。バチバチのネイルであなたに触れたくない。
 クソバカアホ死ねとシンクに向かって叫んだあと、洟をすすりながらグラスとプラカップを洗う。時給1100円で苦い恋をして収支はマイナス。この後このまま二丁目で自棄酒の延長戦をするだろうから更にマイナス。それでも美味くもない酒と頭痛と嫉妬とゲロとあなたの可愛さのために、今日も私は懲りずにドリンクのお姉さんをやるのだ。




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