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教育的関係における一考察〜内田樹の議論を参照しながら〜
はじめに 本稿の目的は、神戸女学院の名誉教授であり、現在は武道と哲学のための学塾・凱風館の館長である内田樹(1950-)の教育観を整理することで、その独自の教育哲学を考察することである。
内田の教育哲学は、自身が30年に渡り大学で教鞭を取ったことや、合気道の師範としての経験から精錬されていき、それは内田の数多くの著書の各所で展開されている。
その内容としては言語教育から宗教教育まで多岐にわた
「教育目的論論争」から教育目的のあり方を考える −ポジティブ行動支援における「望ましさ」を通して−
1 はじめに本稿は、教育思想史学会の前身である教育思想史研究会の頃に学会誌『近代教育フォーラム』上で繰り広げられた「教育目的論論争」を中心に教育目的のあり方を考え、そこから「ポジティブ行動支援」に目を向け、そこで語られる「望ましさ」について考察する。
教育哲学者ガート・ビースタによれば、学校現場では「良い教育とは何か」について語られることが減っている[1]。 代わりに、教育を「学習の言語」で
現在の興味関心について
現在は「教育目的論」に関心があります。
それについてまとめてみました。
1、研究の動機
教育は何のためにあるのか。この問いに向き合う教育関係者が減っているのではないだろうか。かくいう私だって、こんな本質的な問いと向き合うことがなくても14年間も学校の先生をすることができた。だから、そもそもこんな「ややこしい問い」には触れなくてもいいのかもしれない。
学校にはたくさんの「目標」がある。「忘れ物
児童理解という暴力、そして、理解を諦めない倫理
今回は「児童理解」という言葉について考えてみたいと思います。この言葉は学校現場では頻繁に使われる言葉です。しかし、「児童を理解する」ということは一体、どういうことなのでしょうか。何を持って「児童を理解した」と言えるのでしょうか。そんなことを考えてみたいと思います。
まずは理解についての興味深い見解から見ていきましょう。
「お前の言いたいことは、もうわかった」というのは「理解」の対極にあると思想家
教育学における「規範欠如」問題に関する一考察
要旨
本論考では、まず教育学における「規範欠如」について論じる。日本における近代公教育が始まった約150年の間に、教育に対する社会のまなざしは変化してきた。それに伴い、学校教育に求められるものも変化してきたのである。
明治初期は近代国家における「国民」の育成が喫緊の課題であり、戦前までは国家主義イデオロギーを扶植するための装置にあり、昭和の中頃までは学歴社会を高く上昇していくための場所だった
規範が欠如した教育の問題点
教育学には規範が欠如しているという話をしようと思う。
これは言い換えると「何のために教育をしているのか」という問いに対して、教育学は答えることができていない、という話である。
教育という営みは「方向づけ」である。それは、教師が子どもたちに「教える」という点からも明らかであろう。そして、教育が「方向づけ」である以上「どの方向に進んでいくのか」というのは死活的に重要な問題でもある。公教育という以上、
「民主主義の緩慢さ」は大切という話
「民主主義の緩慢さは大切である」という議論を見た。
今、流行りの哲学者であるマルクス・ガブリエルの著書『世界史の針が巻き戻るとき』の中に出てきたのだ。
民主主義の「遅さ」に対して、独裁国家の場合は「早い」のだ。独裁国家の場合、議論をして納得ができない場合は議論を続ける必要はない。より強い者が弱いものを「抹消」したらいい。実際、中国やロシアでは権力者に楯突いた人たちは行方不明になってしまう。
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