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「母」であり「妻」である私が、「自分」の輪郭や正気を保つ大切さを考える。

このところ、家族の調子が悪い。

子どもや夫に、新しい転機が訪れそうなのだが、その転機を前に彼らが不安定になっている。

そんなとき、母として、妻として、私が彼らにできることはなんだろう?と考える。

いや、いつも考えてはいるし、支えてもいるつもりなのだ。なぜなら私は、母であり、妻だから。


「この人と人生を共に過ごそう」と決めて「妻」という立場を選んだし、私が産んだ子の「母」という立場である以上、なるべく彼らが心地よく過ごせるよう、衣食住を調え、明るく楽しい家庭の雰囲気を作れるよう努めている、つもりでずっと過ごしてきた。

大変なことも勿論あるが、彼らが穏やかに、楽しそうに過ごしている姿を見るのが、私にとって何よりのご褒美だったから。

だが、生活や人生と言うものは、「ここからここまでが母で、ここからここまでが妻」と決まっているわけではないし、「母」と「妻」になる以前から「自分」というものがいて、その誰かがしんどくなると崩壊する。

だからこれまで、私の中の誰かがしんどくなるたびに、夫や姑、子どもたち、それぞれと話をすることで解決してきた。

ところが今現在、それが難しくなっている。

家族との関係が悪くなっているわけではない。

それぞれの家族が抱えているものが、私の抱えられるものではないが、とても重いものなので、私がどれほど明るい雰囲気をつくろうとしても、彼らの暗さや重さを取り払うことができないのだ。

私にできる、唯一のことは、「話を聞くこと」


そこまでわかっているのに、何が不満なの?と思われるかもしれないが、これがなかなかしんどい。

仕事でカウンセリングなどをされている方、もしくはカウンセリングを受けたことのある方はお察しかもしれないが、とにかく「つらいつらい」と言い続ける相手の話を聞き続けるしかないのだ。
それも、呪文や知らない外国語のようにただ聞き流せばいいものではない。
真剣に向き合いながら、聞かないといけない。
なぜなら、聞き流した時点で相手からの信用はなくなり、相手は殻に閉じこもり、心も閉じてしまうから。

知らない人ならともかく、大切な家族に心を閉じられることほど、堪えるものはない。

だから、彼らの愚痴はなるべく聞いてやりたいし、気持ちにも共感してやりたいのだが

はっきり言おう。私がすべてを抱えるのは無理。。。


・・・まあ、家族もそれは分かっていると思うが。
・・・なぜか、「他のお母さんにはできなくても、うちのお母さんならできる」「うちの妻ならできる」と思われているフシがある。気がする。。

「あれをしよう」「ここに行こう」とか言い出すのが大体私だし、「あれをして」「これをして」と言うのが大体私だし、そんなつもりはないのだが、家族全体が「お母さんの意向を聞けば何とかなる」と依存的になっているのを感じる。そうさせたのは私なんだけど、そうさせるつもりもなかったのに。。。


正直、この感覚が、私のただの思い込みなのか、家族にも共通する感覚なのかは分からない。


ただ、問題は

気持ちが落ち込んでいようが、誰かに依存していようが、生活は続く。


ということ。

今回の家族の不調で「明るく穏やかに過ごす家族の姿を見られる」ことを楽しみに、大して好きでも得意でもない炊事洗濯掃除に明け暮れてきた私は、楽しみをなくしたときに家族を支える家事ができるかどうか という問いを突きつけられた。

というか、暗い顔でだらだらと、リビングで平日を過ごす彼らの姿を横目で見ながら、洗濯物を山のように積んだ洗濯籠を持っていそいそと移動していたときに、


その虚無は、どっと襲ってきた。。。



そして、初めて気づいたのだ。
「ああ、私の楽しみは、家族の充実した姿を支えられている感覚だったんだなあ」と。


もしかしたら、「理想の家族」をほとんど無意識に、自分の家族に押し付けてしまっていたのかもしれない、と。


🔵🔵🔵


誰も、好き好んで不調になる人はいない。

それは仕方のないことだし、楽しみはあくまで私の楽しみであって、その維持のために協力するよう、誰かに強いるものではない。


だから、これからどうするかは、私の問題なのだ。


子どもが学校へ行かなかろうが、夫が仕事へ行けなくなろうが、それはそれとして、私は私で人生を送っていかなければならない。


私まで、気持ちを暗くして、不安にとり憑かれるわけにはいかないのだ。


何故なら、私が暗くなった時点で、家の雰囲気も暗くなる。
会話がなくなり、いら立ちが増し、攻撃的な言葉が増える。
笑顔が消え、不安ばかりが先立つようになる。


そんな人生、願い下げだ。


だとしたら、ついこの間、学んだばかりのワザを使うしかない。


「分ける」のだ。


子どものこと、夫のことを「自分」から「分ける」

それは、目を背けるということではない。

キライなものの入っているお弁当のおかずを、ポイポイっと外にはじく、ということではない。

苦手なプチトマトやブロッコリーは先に食べてしまって、大好きな玉子焼きやミートボールを、後からゆっくり味わうように。
(ちなみに私は、好きなものは後に残す派です)
でも、お弁当を作ってくれた人や食材そのものへの感謝は忘れないように。

子どもや夫から離れた「自分」のためだけの時間を、最大限、楽しみ、慈しむのだ。


K-popでルセラの動画を見る時間を。
好きなドキュメンタリーを見る時間を。
気になるドラマや映画を見る時間を。
積んでいた本を読む時間を。
1人で買い物に行く時間を。
お気に入りのカフェで、ゆっくりくつろぐ時間を。
気の置けない友人とおしゃべりする時間を。
外国語をちまちまと勉強する時間を。

こうして、ノートを書いている時間のように。




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